夫婦が割れ鍋に綴じ蓋なワケ

おはようございます。

また土日Sさんと離婚するか話し合ってます。
結婚なんて、そんなにお花畑ルンルンではありませんね。

専門家にSさんにやられたことを相談したら、「アスペルガーの可能性もあるから」

と言われたほど、人の気持ちが読めないSさんです。
以前に
配偶者は誤ってだれかの足を蹴ってしまったら、相手の足は痛いだろうから
謝ると考える。(優しさ通貨より)

という話をしました。

私から見たSさんの特徴は
1.頼りがいなし
2.こちらが頼るだけの能力なし
3.自分の世界に引きこもる
4.欲なし
5.存在感なし
です。

言ってみれば「無」に近い。
その理由は、心へのアプローチがほとんどないからでした。
典型的な「いい人」で「魅力のない」人。
お見合いでよくいそうなタイプです。

なぜそんなにぐいぐいくる感じがないのかを突き詰めたとき、以前からSさんが
言っている「病気になっても、周囲にやさしくして欲しいなどの期待はない」という
言葉にぶつかりました。
Sさんにとって周囲とは、自分を守る存在でも助けを求めてもいい存在でもない。
Sさんのぶちっと切れた人間関係像・・・それに私は違和感を覚えました。

以前読んだ本「愛着障害」(岡田尊司著)の「愛着」がまさに抜け落ちている。
3才の子供が「お母さんさんだっこー」とねだるのが通常発達とすると、3才のSさんは
母親を見ても手も伸ばさない、だっこしてほしいとも思わない子供だったと想像
されます。
「愛着」を甘えと言い換えますと、親に甘えることができないまま成長した子は、
他者が自分に甘えることが理解できません。
物質なら与えることができるが、甘えに応じた心を渡すことができないと、他者は
Sさんの存在感を心で感じ取ることができない、即ち「無」の存在になるのです。

あえてカテゴリー分けするなら、Sさんは愛着障害回避型です。

そんなSさんと結婚した私は、このブログを読んでいる方ならおなじみ、重篤の
アダルトチルドレン(AC)です。
小さいときから精神的に親の面倒を見、自分の心を殺して生きてきました。
世界のどこかに自分の心の置き場所があると信じて、その相手を探してきました。
ところが心の置き場所をつくってくれる才能の高い人は、私の方へ向いてくれません。
彼らは心の置き場所をつくるのに長けた女性と結びつく。
何度も何度も片思いして、上手くいかないときは、このパターンでした。

連戦連敗の中、たまに逃げたくなるときがあります。
そこで登場するのが「無」タイプの人間。
私は弱り切っていますから、もうどんなタイプの人間でもかまいません。
で、愛着障害者とACのカップル一丁できあがり!となったのです。

これはKOMAのケースだけに留まらず、なんらかの精神的障害を負った人に
よく見られるパターンだと思います。
障害者同士がつがいになり、障害のハードルの高さゆえに、結婚生活が破綻し
離婚、といった話は、そこいらにゴロゴロしています。←本人達は自分が障害者なんて
思ってもいませんケド。
もちろん障害者同士が結婚して、互いに傷を癒しあうことで上手くいくケース
もないわけではありません。
こういう場合は、結婚という試練を二人で背負うことで、壁を乗り越えることのできた
よい例と言えます。

健全な精神成長をした人は割合が少なく、その人を巡って多くの人が立候補します。
ですから、健全者は選びに選んで相手を決めることができます。
健全者の中には容姿を重視する人も、経済力を重視する人もいるでしょう。
なにも精神面だけが評価対象ではありません。
そこで健全者の要望にもっとも近い人が当選する。
残りの人は、また一から立候補相手を探す旅に出ます。

ちなみに健全者と美人で精神的障害者が結婚までいった場合に、良好な関係は
長続きせず、どちらかが浮気に走ったり、精神的破綻をすると考えられます。
離婚者の中にも結婚するのにふさわしい相手がいるのは、このためです。

話を戻しますと、
健全者の獲得を目指して立候補を繰り返しても、自らが健全でない場合、余程の
インセンティブ(美人とか金持ち)でもない限り、相手は当選させてくれません。
ところが人間は悲しいかな自分のことを客観視することができないので、やれ
学歴が低いからだからとか環境に異性が少ないからだとか、精神とはまったく
外れた所を問題視して落ち込んだり、婚活したりする。
そんな当人に「どんな人が結婚相手としていいですか?」と尋ねると、こちらが引くくらいたくさん条件が出てくる。
その条件の多さやレベルの高さには、自身でなんの疑問も持たないのです。
ですから、客観性を持つ周囲からは「夢見る夢子ね」と言われるのです。

私は 世間の多くは、精神的障害者同士の結婚 だと思います。
だから家庭内の問題を即座に処理できずに、外の世界に向けてスピーチ(要するに
愚痴)する。
それを聞いた独身者が、「いい人がいないなら、特段結婚なんてしたくない。だって
既婚者は不満ばかり並べて幸せそうじゃない。」と言うのです。

自らを客観視できないまま、結婚するのがいいのか悪いのか議論した所で意味などないのです。
そこでよく「本当に譲れないものだけを洗い出しましょう」という提案が出てくるのですが、そこに自分の障害性は加味されていない。
あくまでも結果を出すために、妥協してあげているという感覚。
そんな人同士が一つ屋根の下で仲良く暮らせるんでしょうか。

まずは自分が精神的にどういう傾向があるのか、その傾向はいつごろ生まれたのか、その傾向を克服した人はいないのか、といったことを考えることが大切ではないでしょうか。

結婚とは長きに渡る共同生活です。
美しい容姿や経済力はお互いを引きつける強力な武器にはなりえるでしょうが、
その効力の継続性には、はなはだ疑問があります。
心が幸せでないと、他のお飾りがどれだけ立派でも本人は虚しく思ってしまいます。
「美人は3日で飽きる」とは、お飾り効果の継続性を分かりやすく説いているのです。

今の自分に見合った障害のレベルを負った人が自分と一緒にいる。
それを受け止め、自分の障害の程度を下げる努力をするのか、障害者同士で
互いに荒削りながら、角を落として生きていくのか、はたまた自分の障害を見ない
ふりして、1人で生きていくのか。
どの生き方もアリです。

ただね、自分を完璧だ、とか そこそこだ と思うことは止めた方がいいと思います。
その昔私は、「自分は普通なのに、なんでこんな人たちに囲まれているんだ」とイライラ
したり、落ち込んだりしたことがあります。
必要以上に自分の不幸を攻め、周りに当たり散らしていた自分は、けして美しいとは
言えませんでした。
完璧でなくてイイ、いやちょっとデコボコな自分こそ等身大の自分。と思ったとき
相手のアラが気にならなくなると思います。

異性としてつきあう・つきあわないはともかく、肩の力の抜けた人というのは、それ
だけでまた魅力的なのです。
我々は全員、割れている鍋です。
その割れ方が千差万別なだけ。
最初っから、つるっつるの鍋と思わないほうがいい。