エリクソンの精神療法が成功したわけを考える

岡田尊司著「愛着障害」の中に、エリク・H・エリクソンが言語もままならない状態で渡米して精神療法を始めたところ、どんな高名な医者でも治せなかった患者が回復したというエピソードが紹介されています。

初めてこの文を読んだとき、エリクソンは才能があったのだと特別視をしていました。
ケド・・・
ただ才能があっただけでは言い切れない何かを自分の中に感じていました。

想像でですが、エリクソンがやっていたのは
子供の頃に駄菓子やのおばちゃんのところへ、30円握りしめて「お菓子ちょーだい」といき店内に並べられている丸椅子に腰をかけ、買ったお菓子をほおばりながら、おばちゃんに「あのね、今日学校でね、ゆうこちゃんと滑り台で遊んだの。・・・etc」と話しかけている風景を診察室で実現している感じかなと思いました。
そのときの自分の心って、「おばちゃんに聞いてもらいたい」「やさしい顔で、『ほぉーそうなの。良かったね(ニコッ)』といってもらいたい」んだと思います。
そして実際そうされることで、「あーなんかいい感じ」と身体で感じるのです。
おばちゃんはどんな押しつけもせずに、「うん、うん、よくやってるなぁ」と言ってくれる。
時に嫌だった話、苦しかった話をすると、「よぉ頑張ったなぁ。ほんまにえらい子や」と褒めてくれる。

風景の中の自分って、どんな巧妙さにもまきとられない無垢で透明な心という感じがするのです。
「あーほんまもんの自分が出てきたわぁ」って感じ。
それをエリクソンは実現したのではないでしょうか。

愛着障害は、甘えたい・受け入れられたいという純粋な心を遠くへ押しやったり、ぺっしゃんこに潰したりすることから起こる障害です。
治療を通して、手放してしまった自分を手元に引き戻し、おもいきり甘えられる・許される環境で出直すことで、本当の愛を自分の中に取り返す事が出来るのです。

ディズニーランドに多くの人が足を運ぶのは、そのサービスの高さゆえと言われています。
実はそのサービスは、ディズニーランドに甘えられる、ディズニーランドなら分かってくれるという心地よさではないでしょうか。

みんな寂しいし、みんな受け入れて欲しいと思っている。
その大小はあれど、愛着を求めることは当たり前といえば当たり前な気がします。
問題はその愛着を与えられる人の少なさですね。
今愛着に苦しむ人が駄菓子やのおばちゃんに出会って、愛着障害を克服し、自分が第二のおばちゃんになってくれれば、世の中はもっと穏やかで幸福に包まれることでしょう。