いい子症候群

昨日偶然、尾木直樹さんが出演されていた番組を見た。

そこで我が身内に起こった驚愕のいい子症候群を話されていたのが印象的。

具体的には、我が子はテレビも小学校高学年までほとんど見ない、チョコレートも食べなかったのに、大学になると先輩からテレビをもらってきて夜中じゅう見たり、てんこもりのチョコレートを残らず平らげたり、と今までとまったく別の嗜好を持ち始めたように見えたので、理由を尋ねると、娘さんが「お父さんがそう言う(テレビ嫌い、チョコレートいらない)と嬉しそうだったから…」と大粒の涙を流して告白されたそうだ。

ここで尾木さんは、「あっ、なんてしまったことをしたんだろう」と後悔したんだって。

観ていた人は、お子さんのこの話、とても深く頷いて聞いてらっしゃったんじゃないかと思う。
人は好かれたい、愛されたい、受け入れられたいと強く願う性質がある。
時にそれを優先する余り、自分の本当の気持ちを殺して、愛されるための優等生を演じる。
でもどこかそれは自分であって自分じゃない。なのに簡単に演じている自分を辞められない。
でもね、本当は親が演じなきゃいけないプレッシャーをどこかで与えている。

尾木さんは「いい子だね」という言葉は、その子が作り込んだ像にではなく、その子が存在することや既に持っていることに対して使わないと自分の二の舞になると警告を発してらした。

確かに褒めるという行為は、尊重する側面と脅迫する側面がある。
すでに持っていることを認めるときは、ある・いるといった力の入っていない状態を認めているので、尊重されているんだ感が自然と心に湧く。
一方先に親側の欲望をちらっと口に出し、それを飲んだ子供を認めるときは、親の理想を演じるという力の入った状態を認めているので、演じるのを辞めたら嫌われるんじゃないかといった脅迫感に支配される。

人間の心の容量は決まっており、溜め込める負荷を超えたときそれは自分を攻撃する罪悪感や自己不全感となってうつ症状に表れることもあれば、外に向かって発散する怒りやなげやり感となって暴力や非社会的行動に表れることもある。

だから子供が無理せず伸び伸びと生活するためには、なるべく心が押さえ込まれるような要素を排除し、逆に心を下から支えるような言葉がけを親は心がけることだ。
そのために、自分の子供時代に仮想の親がなんといって声を掛けてくれたら嬉しかったろう?救われたろう?と考えてみることが有効だと思う。

尾木先生は「共感があるからエンパシー(心からの元気のエネルギー)が湧いてくる」とおっしゃてた。
実はそのことは多くの人が知っているにも関わらず、”自分が子供時代はそんな共感なんてなかった。ほっぽらかされた。自分が与えられてないものを、子供だけ与えられるなんてズルい”という無意識の嫉妬心からやらずにいるのだ。
それ即ち自分の心の中にいる<精神的に恵まれない・今でも不満を抱えているインナーチャイルド>が、目の前のことに取り組めない親自身を作っている。
だから子供を癒すと同時に親自身もご自分で癒さないと、懸命に取り組んでもどこかに嫉妬心が現れて、子供から”演じてるね、いい親を”と白い目で見られる。

結局全ては自分の生きて抱えてきた想いの表れだ。
想いが汚れていれば汚れた言葉が、きれいならば清らかな言葉が出る。

対人間に対して接するに相応しい心持ちのバランスというのは、とても繊細で微妙なラインにある。
そのラインを見抜けるかは、自身の”どこが自分で自分をみて気持ちよいポジションなのか”が分かっているかどうかにかかっている。
自分のケアができるからこそ、子供を含む他者のケアが出来る。
実は子供のことを看ているようで、自分を看ている。
自分を大切にし、自分を認めてやることが第一歩なんですね。