親を尊敬出来ない、って心を痛めないで

学校で「尊敬する人を挙げましょう」と言われて困ったこと、ないだろうか?

野口英世、ナイチンゲール? でも、会ったことないし、なにか答えなきゃ。そう焦る私の横でA子ちゃんが「私はお母さんとお父さんを尊敬します。お母さんは美味しい料理を作ってくれるし、お父さんはいつも勉強をやさしく見てくれる」と声高らかに発表。それを聞いて ”あれ?、うちもおかーさんは料理するし、おとーさんに宿題を聞けばとんちんかんながらも答えを言うぞ?” と思う私。でも尊敬とはなにか違う様な…とか思いつつ、”早くこの時間終わらないかな”と思うのが毎度のことだった。

今でも、親を尊敬することの意味が解らない。尊敬というのは、勝手に湧いてくるものだけれども、こと親に対しては憎しみや卑下の感情しか浮かばず、どこをどう切り取っても、敬うとか尊ぶみたいな感覚とは結びつかない。

どうして私は親を尊敬出来ないのだろう?

尊敬の念とは

まず最初にやらなければらならないことは、「親を尊敬しないなど、恩知らずだ」という思い込みを捨てること。もしその脅迫めいた観念に取り憑かれたままだと、自由に考えることができない。
世の中には尊敬出来る親と尊敬できない親がいて、残念ながら尊敬出来ない親の元に生まれちゃった、くらいの気持ちにリセットしてから始めよう。

手始めに尊敬できる人を挙げていくと、ある共通点が見えはこないだろうか?松下幸之助、井深大、田坂広志、キャロル・S・ドゥエック、池田清彦…。みな、自分への執着を棄て、自分ではない何かに思いを向けている。

自分だけが得したい・損したくないという思いから離れて、ただひたすら誰かのため、何かのために邁進するその姿に、なにか人間を超えた高貴な心を見る。

我々は生きるために肉体を有し、精神を保つためにプライドを持ち、それらを守るための尺度を肌身離さず持ち続ける。しかし、尊敬する彼らはそれを容易に捨て去り、自分が生きるためや精神を保つことよりもずっと意義のあることに身を捧げている。その離れ業の偉大さ、思わずひれ伏してしまう。それが尊敬の念のような気がする。

思った通りを実行しようとする親

では、自分の親はどうなのか。
いつでも自分の尺度で物事を推し量り、得になることだけをしようとする。そのために、子供が悲しい思いをしようが、苦しい立場に立たされようが知らん顔。その典型的なのは、「詮索」。学校で何があり、どんな人間関係を築いているのか事細かく知りたがり、気に入らなければ相手にいちゃもんをつけ、付き合いに待ったをかける。

そこには、子供への思いなどない。あるのは、いかに自分が恥をかかないか、自慢できるかだけ。付き合いだけじゃなく、学歴も、就職先も、結婚相手も、なんでもかんでも、自分の尺度で推し量り、いちいち口を出してくる。

自分の尺度にだけ忠実な奴のどこに偉大さがあるのか。
だから親を尊敬できない。

大人になりきれてない親

人は精神が成長にするに従い、自分のことではなく相手のことを考えられるようになる。ところが、成長を一つ一つ丁寧に踏み越えていかなかった人間は、身体だけが成長して心はお子ちゃまのままとなる。未だに周囲は自分を満足させてくれるために存在すると思っている。

だから子供が悲しい顔をしようが、自分の「詮索したい」を優先する。さらに保護者という権力をたてに、子供の反論を封じる。そのもっともらしい理屈を前に、子供はなすすべがない。そして表面上は従う。が、心の中では背く。結果として、親を尊敬しなくなる。

幼いからといって子供はバカにはできない。よく相手を見ている。身体だけ社会的スキルだけ大人な人間と、心も大人な人間は明らかに別物だと分かっている。親を尊敬出来るといったA子ちゃんの親と、尊敬できないと思った私の親は、大人としての度合いが明らかに違った。

親は自分を世に送り出すインフラ

あまりにひどい親だと、親であると思いたくなくなる。そんなときは、親は次の世代(自分のこと)に命をつなぐためのインフラだったと思おう。インフラがインフラとして働くために、受精卵を作り、10ヶ月腹の中で育て、生まれてきた子を成人するまで面倒を見た。

生物としてプログラムされていたことを、なんの疑いもなく実行しただけのこと。別に子供のために、とかじゃない。とくに親の世代は、子供を生まないことの風当たりがキツかっただろうから、生物としてのプログラムを棄権するなどといった自由さは認められていなかった。つまり彼らは、自分への風当たりを避けるために、プログラムを実行したに過ぎない。

淡々とやるべきことをやっただけ。

だから親を尊敬できない、って心を痛めないで。たまたま尊敬出来ない親の元に生まれちゃった、ってこと。運です。あなたの心は間違ってなどいない。

参考
dot.asahi.com