子供にこんな褒め言葉を掛けていないだろうか?
「100点とったなんてすごいね!」
「お手伝いするなんてエラい!」
親は好ましい行いをする子供に惜しみない賞賛を、という気持ちからこのような言葉を掛けているのだろう。
だがこれは「私(親)はこんな機能を備えたロボットが好き」と言っているのに等しい。
「100点の取れる知能を持ったロボットが好き」、
「親の代わりに率先してお手伝いをするロボットが好き」、と。
ロボットとしての子が歩む破滅への道
親は子供が自分の願望をどれだけ詰め込んだロボットであるかが何よりも重要であって、それが生身の人間だろうがプログラミングされた物体だろうが、そんなの関係ない。要は、子供の振る舞いによって鼻高々でいることさえできればいいのだ。
子供も小さいときからそういう扱いをされてきたので、何か出来ることに価値があると思っている。勉強、スポーツ、人に役立つことを率先してやる模範的な子供であろうとする。だが、ひとたび出来ない事態に遭遇すると、今度は”自分は無能なガラクタなんだ” と思い込んでしまう。
失意の底に落ちた子供はしばらく打ちひしがれて無気力のまま彷徨う。けれど心の奥底にある「認められたい」炎は消えない。親に代わる誰かが自分を褒めてくれたなら、それでいい。
そこへ大人がタイミング良く(というか狙って)甘い言葉を掛けてくる。子供達の欲しがっているものを与えるふりをして、言葉巧みに性産業へと誘い込む。
「きれいだ」「又会いたい」「君が一番だ」などの言葉は、一度ぺちゃんこにつぶれた自己肯定感を取り戻してくれる。”私を求めてくれる世界はまだあった!”と喜ぶ子供達は、そこに居場所を見つける。
ただそういう世界の大人は最初は優しいけれども、慣れてくるとぞんざいになる。元々自己否定感の強い子供達は”きっと私に問題があるんだ”と自分を責める。根が真面目な彼らは努力を惜しまない。けれど、頑張った割に前のような優しさは手に入らない。そこでまた居場所を失い、自己否定の底に落ちていく。
モノとしてのロボットと心を持つ人間の拮抗
人間には心がある。心とは「大切にされたい想い」と言い換えられる。
子供がロボットとして見られる以上、そこには大切にされるという観念を挟まない。
あくまでもモノであり消費される立場。
人生のスタートで親からロボットとしての評価しか与えられなかった子は、人として扱われる感覚が分からない。よって自分が人として扱われたいんだというニーズに気づくことさえできない。
でも心は死んではいない。意識上にはあがれなくとも必死で叫んでる。「人として扱ってくれ!」「存在そのものを受容してくれ!」と。
人は存在を受け止められて初めて、”何もしなくても自分は受け入れられる存在なんだ” ということを肌で理解する。何かやるから素晴らしいのではなく、ただ居るだけでいいんだと実感する。
褒められた子はずっと今までロボットとしてどうやれば優秀でいられるかを考えてきた。ついて回る評価に気分が激しく揺さぶられてきた。そのことが不安定な精神を作り上げ、輝かしい未来の芽を摘み取っている。
褒めることの弊害とは?
結局、褒めることで子供を追い込んでいる。光を見せたつもりが影をクローズアップさせてる。人生のほとんどは失敗続きで、成功はたまにしかないのに、影の存在を目立たせてどうする。子供を萎縮させたいのか?
褒めることの弊害は、かけがえのない子供一人の人生をクラッシュさせていることである。
今一度褒めることのもたらす害を考えなくてはならない。
ちなみに私は褒められなくなった苦しさから、自殺未遂を図った。中学3年の頃だ。