緩やかな付き合いについて考える

昭和の時代、人々は密接に関わり、助け合いの中で生きてきた。
いつしか、密接な繋がりが疎まれ、近所づきあい、醤油や砂糖の貸し借り、他人の
子供の面倒を見ることがなくなってきた。

どうして、密接な繋がりが疎まれるようになったのか?

密接な繋がりの元をたどると、人間は全員同じ価値観を持っているという前提が見えてくる。

だから、少しでも人と違うことをすると村八分にする。
村八分前と後でのギャップたるやすさまじいので、「頭一つ飛びでないようにしよう」と
びくびく暮らしてしまう。それはそれで息が詰まるだろう。
仮に、自分は自分だ!と開き直って、好き勝手に行動すると、「あの人変わり者よね」
と陰口をたたかれたり、「どうして××しないの?」と正面切って言われる。
つまり、[元のルール社会に戻れ!おまえのかってなんか認めない]と永遠言われるのだ。
これって、洗脳とやりかたは同じ。
だけど、我を持っているからこそ、簡単に洗脳はされない。

想像して欲しい。日常が自分の意志と反対の洗脳にあふれた言葉で埋め尽くされたら
そこに留まりたいと思うだろうか?

私なら、その日常から距離を置く。
おそらく似た感覚が、ネットでしか繋がりを持たない現代社会を生み出したのではないか。

緩やかな付き合いがいいじゃない!という言葉をよく耳にする。
これを翻訳すると、自分の領域に誰も踏み込んで欲しくない。けど、寂しい気持ちの
ときは、誰かと繋がっていたい。

これをもう少し進んで考えると、自分の存在や考え方は尊重して欲しい、その上で
人間関係を持ちたい、ではないだろうか?

NHKで放送された「無縁社会」の最後にキャスターが、「昔のような濃い繋がりには
戻れない。けれど現代のように誰とも繋がれないのも問題がある。どうすれば
よいのか我々はその答えを考え続けねばならない」みたいな(うろおぼえです)ことを
言っていた。
その答えが「他人と自分を区別する」という教育を国民全体にすることではないだろうか?
我々は一人一人がどのような存在で、どう他人と接していくのか、自分をどう理解する
のか、そういった「私って何よ?」「あんたってなによ?」の部分が、曖昧であるから
人の領域を平気で侵害したり、領域侵害が嫌だからって、人と距離を置きすぎて、
孤立するのだろう。

精神疾患が蔓延し、経済損失が兆単位で起こっている現代において、真面目に啓蒙
活動をし、人間そのものを理解しなくては、日本の未来は危ういのだと感じます。