買えば心は満足するのか?

買うという行為は、一時期的に心を満たしてくれる。
自分が好意を抱く商品を我が物として手に入れ、あたかも自分と商品が一体化
したように自分の価値を想像の中で向上させる。
と同時に購入できる自分の経済力に酔いしれる。

昭和初期の物のない時代、人々は必要に駆られてものを購入した。

バブルの頃、人はステータスのためにものを購入した。
バブルがはじけてITが発展し、人と人の繋がりが希薄化した頃、SNSなどを
インフラ(ケイタイ)やソフト(メール、オンラインゲーム)にお金を払うようになった。

バブル以降、お金を払う対象に変化はあれど、購入した対象を所有している自分が
周囲から賞賛されている状態を確保したくて、背伸びして消費しているように思う。

マズローの5段階欲求の中で、昭和初期は生理的欲求や安全の欲求を求め
バブル時代は愛と所属の欲求と承認欲求を求めていた。
ところが、愛と所属の欲求と承認欲求はお金で買っても、満たされる範囲が
限定されているため、未だに人々はこれらの欲求を求めている。

当然時代が変わったので、お金をだして簡単に手に入れられる対象に価値を
置かなくなり、代わりに手に入れにくい友達の数という新たなパラメータで欲求を
満たそうとしている。

ところでこの欲求に満たされた~♪という実感が訪れる日は来るのだろうか?

消費は経済を活性化するという意味で非常に重要な行動だ。
しかしながら、人が消費に求めていることと消費が人にあたえることに乖離が
あるように感じる。

人が愛と所属の欲求と承認欲求を満たされるためには、自分を見つめるという
まったく消費とは関係のないことを行わねばならない。
寺にはいって座禅を組むとか、自分の気持ちをノートに書くとか。

人の欲は人々を一体どこに連れて行くのだろう。
欲を生み出す煩悩とそれを満たす精神力が人間の内部に両方備わっていないと
いつしか、内部崩壊が始まるのではないかと、ちと心配です。