我々のすばらしさはその創造故

プログラムを組んだことがある人は分かると思うが、ロボットは、こういう入力が
あったら、こういう出力をしましょうと決めてある。
だから、一定の動きをする。
これは言ってみれば、ロボットに常識を教え込んでいることになる。
我々も幼き頃は、親から常識をたたき込まれる。
挨拶・道具の使い方・謝罪・身の安全の守り方など。
ただ我々人間の凄い所は、その常識をベースとして、新しい概念を作り上げたり
また環境と常識がマッチしないときは、変則的な理解が出来うることである。

ところが・・・だ、ロボットとそう変わらない動きをする人間がいる。

古き時代にプログラムされた時代錯誤な常識を信じて疑わないカンカチコンな頭。
さらに悪いことに、間違えて仕入れた常識や思いこみの常識、非常識な人に
教えられた常識さえも、信じて疑わないからタチが悪い。

またそういう常識を振りかざす人ほど、排他的で、自分は絶対であると疑わない。
傍目で見ていると「コイツは神か?」とせせら笑ってしまう程である。
もうこうなってくると、完全な不良品ロボットでしかない。

つまり我々は常に創造的でないと、人間としての価値が失われつつある。
人間だけが生み出せる美を作るだとか、今までにない機器をつくるだとか
ひっくり返ってもロボットにできないことをやって、ナンボの世界。

創造とは、ある日突然出来るほど生やさしくない。
身近な常識を疑って、失敗を恐れずに試して、改良して・・・を繰り返して、やっと
創造の入り口に立てるくらい。
常識に胡座をかいている人間には到底できそうもないウルトラC。

共通認識やルールがなければ、創造はできない。
だから常識は大切だと思います。
しかし、自分が信じた常識は、自分から一歩出たときは非常識かも知れない
時代を経たら非常識かも知れない。
後から非常識ですよって教えられるくらいなら、自分から常識をふまえた常識破り
をしてみたらいいじゃない。

傲慢で、二元論的、短絡的な人が増えた現代。それは自分だけの常識を信じて
疑わない人の増加とも言える。
その常識を疑うからこそ、「いやっ、ひょっとして・・・」の気持ちが、他の常識を
見るキッカケになったり、他人の心をもっと考える機会になるのです。
我々人間は、変わることが出来るという一点において、ロボットより格段に優れます。

常識に縛られたプログラミング可能なロボットに成り下がるのがいいですか?
それとも失敗してかっちょわるくても自分にしかできない創造を生み出す存在
となるのがいいですか?