結婚を望むあなたへ。選ばれることから解放されてみませんか?

人生には幾度となく、選抜結果をまざまざと見せつけられる機会が訪れます。
受験、モテること、告白が成功すること、就職すること、結婚することetc・・・。
生涯を通じて、あなたは価値ある存在かを判別されつづける。
そこに身を置き、「いらない」と烙印を押されたとき、どう立ち直ったら良いのでしょう?
そもそも、そこに身を置くことは正解なのでしょうか?考えていきたいと思います。

良い・悪いの判断は普遍的ではない

我々は、選抜されたら良い、されなかったら悪いと判断します。
さもそれが絶対的価値評価のように思い込んでしまう。

しかし、選抜とはある目的に沿った人を選ぶ行為であって、人に優劣をつけることではありません。
目的を達成するのに、一定以上の出来を保ちたいから選ぶ。ただそれだけ。
人自体が優れているか、優れていないかなど判断できっこありません。
判断出来るのは能力の優劣。それも評価したその瞬間に限られます。

あるとき、ある人物が基準以上の能力を備えていた。もしかしたら1年後には、合格した人が基準以下の能力に下がっているかも知れません。
なのにその瞬間の判断に一喜一憂するのは、いささか勇み足過ぎやしませんか?

問題は変化しないこと

選抜されなかった、ということは、今は基準以下です、ということです。
そこで、今年も来年も、再来年も、変わることなくそのままをキープしたら、明らかに問題です。
選抜されなかった過去を、自分の手で確定したことになる。
でも、悔しさをバネにしたらどうでしょう?

アイドルを見ると、選抜でグランプリをとった子よりも、3番手4番手の賞をとった子が伸びることがあります。
それは、”けしてトップではなかったけれど、見てくれている人がいる。その人に報いたい”という悔しさと期待が入り交じったところがスタートラインとなっているからでしょう。
悔しさ、というのは飛躍の原動にもなるのです。選抜されなかったら、といって落ち込むことはないのです。

選ばれない呪縛に縛られる大人達

私を含む多くの女性は、結婚とは選ばれた勲章と捉えています。
選ばれるほど価値ある自分だと証明されるには、「結婚」というバッチが手っ取り早いのです。

でも、それでさえもある時期結婚に向いていると選抜されたことに過ぎず、基準以下の能力になれば、離婚に至ります。
それでもなぜか、結婚した!というバッチは、誇りとなるようです。
選ばれた実績は、「結婚したからいいでしょ」、という免罪符になる。
反対に一度も結婚しなかったら、総叩きです。特に年配者から。

一昔前までは、結婚して一人前、という風潮がありました。でも考えてみれば、当時は本人の意思とは無関係に結婚は決まったのです。
基準以上も以下もない。選抜もなかったのです。
その時代に結婚した人々の頭には、結婚しない、という人生が思い描けない。さらにたやすく手に入れた結婚が今や希少なものと化している。
これは結婚を自慢し、常識外れと相手をののしる大チャンス。ここぞとばかり、結婚していない人間を「欠陥人間」呼ばわりします。

そんなイジメのような行動に屈して、相手の言い分に飲まれなくたっていいんです。
選ばれなきゃ人間じゃない、という呪いに掛かってあげなくてもいいんです。

もっと自由でいいじゃない!

今は多様性の時代です。結婚してもしなくても、それは個人意思だし、同性婚は認められてないけど徐々に認識が拡がってきています。選ばれるとか、選ばれないとか、ではなく、自分がそう生きたいから生きる、の時代に変化しつつあります。

選抜から漏れた後、どうしても選ばれたければ努力し続ければ良いし、別の目標に変えても構いません。
変えてしまったら、選抜されなかったことすら記憶から消し去っていいんです。

選ばれようとし続ければ、窮屈になるだけでなく、選ばれたときは天狗に、選ばれなかったときは卑屈になって、人間としての格を落としてしまいます。それこそが恥ずべき生き方ではないでしょうか。

”選ばれる”という意識から解放された生き方はカッコイイ。
”自分がどう生きたいか”という価値に軸足を移しかえてみませんか?