自然は人を傷つけない

満開の桜はただ黙ってその美しい姿を見せてくれる。
可憐な白い花の群れは、そっと風に揺れている。
かわいいぱんぴぃは、ちょっと離れた所でこっちをじっとみている。
空ではひばりが美しい声を奏でる。

だれも、なにも、傷つけない。
こんな世界があったのか。

それに比べ、人間のなんと我の強いことか。

ちょっと思い返すだけで、干渉してくる言葉、傷つけられた言葉が浮かぶ。
あの人も、この人も、平然とした顔で、人の心を操ろう、のぞき込もう、踏みつぶそう
とする。
自然のように人の”然り”を認めない。

そう思っていると、涙がこぼれてきました。

なぜに親は子に「あなたのためを思って・・・」と自分の欲を押しつけてくるのでしょう。
その子の持つ宝物を一緒に探そうとしないのでしょう。
その宝物は、親が子に命と一緒に授けたのです。
でも宝物は時間を掛けて注意深く掘り進めていかないと、見つけられません。
世間に合わせよう、普通より秀でようと焦ることが、宝物の放つ光を遮り、本当
の宝物を掘り当てる前に、ニセモノに惑わされて見失う。

そのままを認める社会、居るだけでいいよと言ってくれる家族、そういうほっと
できる場所、本当に自分は縁がなかったと思います。
そして、多くの人々もまた縁がないと思います。

我々は、学歴より前に、年収より前に、”生きて”いるのです。
”生きて”いるから、学歴などの付属物がくっついてくる。
付属物があるから”生きて”いるのではありません。

「自信はどうやったら付きますか?」
その問いに、多くの人は、「志望大学に受かったら」「資格が取れたら」と付属物
を条件にします。
本当にそうですか?
大学に受かって、資格が取れて、貴方はずっと自分を受け入れていられますか?
もし事故にあって、後遺症が残ったらどうしますか?
最愛の人を失ったらどうしますか?
誰も愛せず、誰からも愛されなかったら、自分に自信が持てますか?

付属物など、目くらましに過ぎません。
叶ったその一瞬、喜ぶかも知れない。
でも大切なことは、頑張った自分、もがき苦しんだ自分の経験を通して、自分を知り、
受け入れていくことだと思います。

この世の中は、悲しいことですが、批判する人が多く、受け入れてくれる人は
ごくわずか。
だからそのままの自分を自分で受け入れましょう。
付属物など要りません。貴方のままで十分です。

田んぼで思いました。
私は、自分の受けた心の傷を誰かに負わすことだけはしたくない と。
自分が話す言葉は、誰かを救い、包むために使いたい。
さんざん傷つけられた自分だからこそ、言葉の罪深さを心得ようと思ったのでした。