生きてる限り人に傷つけられる現実をどう受け止めようか

世の中悪い人ばかりじゃない、と分かっていても、世に出れば少なからず人との接触があり、傷つけられることがある。言葉は、いつだって鋭いナイフとなる。

だから私達は物言わぬ生き物に癒やしを求める。彼らは牙をむくことはあっても、言葉で傷つけたりはしない。裏を返せば、それくらい言葉はむごいのだ。そのむごさを避けて通れぬ人間界において、私達はどのような方法で傷を最小限にとどめることができるのだろうか。

いきなり飛んでくる槍

自分が人の悪口を言ってて、忠告を受けるなら、納得もいこう。しかしながら、なんにもしてないのにいきなりド突かれるが如く、鋭い言葉の槍でブスっと刺されることがある。

たとえば、和やかに談笑しているところで急に隣の人から「よく旦那に捨てられないね~」や「アンタが真似してるアイドルのスタイル、全然似合ってないし。やめた方いいよ。」などなど。

予期せずして飛んできた槍に頭が追いつかず、たいていはウッと詰まって、苦笑いするしかなくなる。そして後々になってふつふつと怒りが湧き上がるのだ。怒りが大きければSNSなどで反論したり、別の人に悪口という形で吐き出すかもしれない。しかしいずれにしても、心が晴れることはなく、言われっぱなし傷つけられっぱなしの傷心モードとなる。

結果、人への不信感と傷つけられたくないという自己擁護の気持ちに取り憑かれる。

自分はどうなのか?

私だったらそんなヒドいことなんてしないよ!と思ったかもしれない。

だが、残念ながら我々も、知らず知らずのうちに思ったことを口にしてしまっている。
「え!よくそんな(ダサい)の見つけたね。」「アンタほど酷くはないよ。」。どんな人の心の中にも常に「これが常識!」という枠組みが存在し、枠から外れた考えを切り捨てようとするエゴが目を光らせている。そのエゴはさらに、「自分の方が上!」と判断するやいなや、間髪いれず切り捨て攻撃に転じる。

なかなかな性質である。しかしながらこれが人間の本質。傷つけられた経験があるから、絶対に自分はそうしない、のではない。我々もまた、チャンスさえあれば人より上に行こうとしてしまうのである。

槍が飛んでくること前提に人生を組み立てる

自分も止められない、他者も止めさせることができない。

ならば断絶するのか。人と全く関わらずに生きていくのか。数年ならば可能かもしれない。しかし貯金が尽きて働かなくてはいけなくなったら、年を取って身体の自由がきかなくなったら、人の中に戻っていかなければならない。

だとすれば、槍が飛んでこないよう人を避けるのではなく、飛んできた槍を素手で捕まえられるようになった方がいいのではないか。槍を投げる人の槍を投げる理由は、相場が決まっている。それを見越して準備しておけば、槍を捕まえられるかもしれない。

具体的な相場は

  • コンプレックスの裏返し
  • こちらを格下とみなし傷つけても反撃しないとタカをくくっている

コレに対する対処方は

  1. 相手を脅す
  2. 相手を愛する

要するに相手よりも自分を強い立場に持っていく。相手より懐深く、相手より賢く振る舞えば、自動的にこちらが上になる。そのために大切なことは、相手の言葉に振り回されない強さ。相手が何を言おうとも、それは相手が思ってることであって、こちらが同意したわけではない、という意識を強く持ち続けることだ。

その意識が、次なる手を導いてくれる。

心も身体と同様、素のままでは弱い。なんども練習し、場数を踏むから、力がつく。傷つけられることを前提に、人生を組み立ててみてはいかがだろうか。