合理性、根拠のない押しつけはエゴ

躾とエゴの差はどこにあるんだろう?と考えてみた。

ボールを追いかけて道路に飛び出してはいけないと教えること→躾(危険の回避)

お箸をきちんと持つこと→躾(美と技術を授けること)
積み木で遊ぶなら、計算ドリルをやれと命じること→エゴ(親の意図、都合)
親に口答えしないと強要すること→エゴ(親の意図、都合)

親の意図、即ちコントロールは合理性や根拠がない。
まともな説明がないから、本人は命令理解の消化不良を起こし、単に押さえつけら
れたという恨みが残る。

要するに鍵となるのは、当人が論拠をを理解し、心がその指示を受け入れられるか
否かだ。

「ごちゃごちゃ言わずに従え」という大人がいたら、その大人こそ”脳足りん”である。
自分の命令の合理性さえも説明できないのに、命令権だけはあると勘違いしている。
納得する説明が出来る、その論理を理解しているからこそ、大人なのに。

学校に入ると、躾の代わりに校則が適用される。
その校則とは、どんな合理性を持っているのだ?

髪を染めてはいけない。
ピアスを開けてはいけない。
密接な異性交遊をしてはいけない。
学校帰りに寄り道してはいけない。

その理由を生徒に説明し、納得できない生徒に対して、諦めることなく対話して
いくからこそ、大人であり教師である。
それができないなら、校則からその項目を外せばいい。

外見に関して言うなら、人は目で多くの情報を取得し、髪色や金属の有無が
メッセージとして伝わるという事実を以て、学生にふさわしくないことを説明
すればよい。
異性交遊は、年齢が幼いと性衝動が抑制できないので、望まない命が犠牲に
なることがあると説明すればよい。
寄り道をしてはいけないのは、??? KOMAには分かりません。

生徒と徹底的に議論して、合理性のもとに校則があるのだと言えば、少なくとも
単純に押さえつけるより生徒自身が尊重されていると感じるのではないだろうか?

私はルールをふりかざす側こそ、なんにも考えていないと思う。
子供に、生徒に、「どうしてですか?」と迫られて答えられないならば、強制する
資格はない。

権利は義務とセットで初めて意味を成す。
権利とは、躾や校則を決めること。
義務とは、決めた事の理由を説明すること、考え続けること。

人を統制するのに便利な権利だけが一人歩きして、義務が置き去りになっている。
「常識でしょ?」「だってルールだもん」←大バカモン!!!

これでは戦争になる直前の日本と同じ。
「お国の命令だ。戦争すべし。」
その一言で沢山の命が犠牲になったんですよ。

今ネットを見る人々は、ほぼ戦後生まれだと思う。
敗戦国、被爆国として学ぶべきは、一人一人が考え、自分の意見を持つ大切さを
知るというころでしょう。

もっと思慮深く、考え深くいきましょうや。
ちゃんと自分の頭で考えましょうや。