「自分に置き換えて考える」は想像力のない人の最低限の方法

小さい子供にやってはいけないことを教えるときに、「自分がされたら嫌でしょ?」という方法がある。
この「自分に置き換えて考える」は大人になってもよく用いられる方法ではあるが、私はそれを <想像力がない人がなんとか相手の環境を分かるための最低限の方法> に思う。

というのも、人は抱えている背景や人生観が違うのだから、他者の人生をあたかも自分の人生に当てはまるかのように思考することは、他者を自分の価値観にねじ込むことであり、そこに他者への尊重は微塵も見られないからだ。


人は未熟であればあるほど、相手を相手のままに想像することが出来ない。
そこで取る手が、「自分に置き換えて考える」だ。

しかし食品アレルギーの人の「食べたいけど食べられない不満」や「もしやこの食べ物にも微量に入っているのでは?という恐怖」、「『食べられないの?』と揶揄されることの悲しさ」は、アレルギーのない人が「自分に置き換え」たら理解できるのだろうか?
もしそうならば全てのことは易々と想像できることになり、著名な小説家の文章は、「自分に置き換え」さえすれば、誰にでも書ける。

言葉にした上でかろうじてそのエッセンスの1/3くらいは理解できる程度が現実である。
だからこそ、我々は安易に自分に置き換えて分かった気にならないことだ。
若い女性が「わかるぅ~」を連発しながら、友人と同じ世界だと錯覚しつつ安心する様は、思想が幼いことを表している。
若いからこそ許されるものではあるが、年を重ねても尚そのような思考形態であるならば、晩年、人間の多様性が広がった暁には、ひとりポツンと残されることになるだろう。

私の祖母のあの孤立している様は、他者を想像できなかった故の悲哀であろう。