「真面目」な性格について

「真面目」な性格は、①うち解けにくい②融通が利かなそう③信頼できる というイメージだろう。

付き合いを進める上で最低限守らなければならないルール-嘘をつかない、時間を守る-について、「真面目」な性格の人は裏切ることがない。


信頼に足る人物にもかかわらず「真面目」な性格の人は、なぜ人付き合いが下手なのだろう?

そもそも真面目の意味とは、
①うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。
②真心のあること。誠実であること
らしいのだが、口語で使用されるニュアンスは先に挙げたように、堅苦しく融通が利かないという揶揄の気持ちが込められている。

果たして堅苦しく生きることは、本人の望みなのだろうか?
刷り込まれた「あるべき像」と寸分違わない自分であるために自分を律する生活は、その人の心を豊かにするのだろうか?

「真面目」な性格の人の親は二パターンに別れる。
一つは同じ真面目タイプの親、もう一つは逆の不真面目タイプの親。
一見すると反対の性質である「真面目」と「不真面目」は、元をたぐると同じところにたどり着く。即ち心を粗末に扱う考え方。
真面目ならば、「べき」に縛られて心を殺してしまうし、「不真面目」ならば、親に心の問題にまともに取り合ってもらえず、放置されて心が拗ねる。

どちらにしても心を大切に取り扱われないので、子供は自分で感じ・考えるという訓練を経験することなく、理想像である「真面目」を手本としてそれに忠実であろうとする。
つまり「真面目」とは、心が置いてけぼりされた象徴なのだ。

心の正しい扱い方を知らないまま、理論上のキチンとすることだけを追いかけていく人付き合いは、教科書通りで何の楽しみもない。
だから他者と長続きしないし、深い繋がり、貴重な体験の共有ができない。

”「真面目」が嫌だ、抜けたい”と思うならば、ふざけたりルールを逸脱するよりも、自分の心を大切に守る方法を考えることだ。
自分が今何を感じ・考えているのかを理解(わか)ることで、人間には理論では推し量れない深い世界があり、その世界を見ることこそが、人が構成する社会を見る醍醐味を味わえ、ひいては人付き合いの無限の可能性を知ることとなるのだから。

無理に「真面目」であろうとする必要はないんです。
大事なのは貴方の心。
貴方の心を貴方が守ることの大切さを知るから、他者を守るやさしさが身につくのです。
そのとき、信頼に足る行動が出来るようになり、優しさとユーモアと判断力と信頼のある素晴らしい人材に生まれ変われる。
順序を守れば自然とそれは身につきます。
「べき」の鎧を捨てて、ふんわり温かな「大切にしよう」のセータを羽織ってくださいませ。