愚痴を言わずに生きるために

愚痴を言わずにいる人を見て、「どうなってるんだ?」と疑問に思う人がいる。
そしてついには「愚痴を言わないなんて偽善者だ」とか「他に毒を吐いているに違いない」といちゃもんを付け始める。
しかし冷静に考えれば、愚痴を言わずに生きていくことも可能なことが分かる。

まずなぜ愚痴を言いたくなるのか考えてみる。

それはある瞬間に自分の心に負荷がかかるからだ。
「嫌だ」とか「苦しい」という思いが発生し、それを浄化しないまま溜め込む。
そして長い間自分だけの中に溜め込むことが出来ないから、自分より弱い人・話を聞いてくれそうな人に、その思いを告げ、共感や同情を得ることで思いを浄化する。

愚痴を言わないためには、思いが発生したその場で解消すればよい。
すなわち、アサーション(爽やかな自己主張)をするのだ。

ところがやろうとしても、その場で言い返せない人が多い。
なぜなら、自分が生まれ育った環境が言い返せない環境だったから。
幼い頃に自分なりの考えを言おうとすると、親から「口答えするんじゃありません。黙って言うことを聞きなさい」とはねつけらた。
その経験を通して、「自分の意見は聞いてもらえない」「自分の意見は、相手の機嫌を損ねる」という思いこみが板に付いた。

そのような教育をした親は、もちろん間違えている。
ただし、過去は変えられないし、受けた教育をなかったことにはできない。
愚痴を言い続ける人生から卒業したければ、自分で再教育する他はないのだ。

自分の愚痴を聞いてくれる弱いあの人は、いつまで愚痴を聞いてくれるだろう?
おそらくあと少しで、嫌気がさして自分から去ってしまう。
そうすれば、正真正銘のひとりぽっち。
ただただ思いを溜め込んで、パンクしそうな自分をなんとか抑えながら日々の生活を送るハメになる。
そうなってから誰かを求めても、愚痴を聞くのは誰しもゴメン被りたいから、聞き役なんてつくれやしない。

思いがそのうち腐り始めて、鬱やひきこもり、そして存在を消そうとする行動へと結びつく。
そこまでしても尚、自分の人生を再教育しないなら、堕ちる人生しかない。

「生きる」ということは厳しい。
誰かが自分の(感情の)責任を取ってくれるなんてことは、一切ない。
どこかで覚悟を決めることだ。
自分の尻ぬぐいは自分でするって。
成人したら、もう親のせいにはできない。