全ての人が望んでいるもの

結局全ての人が、
他人が自分の思い通りに動いてくれ、自分が迷ったときに「あなたは間違えていないよ」と認め励ましてくれることを願っている
ように思う。

当然それは叶わないので

ある人は
力や金銭で相手をねじ伏せようし
ある人は
拗ねたり相手に罪悪感を抱かせることで従わせようとし
またある人は
自虐や命を粗末にするなど自分をおとしめる行為を以て相手から助けを引き出そうとする。

人間の”欲”の正体が姿を変えて、現れては消え現れては消えする。

しかし当人も”欲”に踊らされていることを知らないので、”欲”を達成するための手段は無意識で講じられる。
むしろ”欲”による”支配”を受ける側の方が、何ともいえない居心地の悪さを感じやすい。

さて、なんとか手段を講じてでも”欲”を達成したいと工作する場合、大概うまくいかない。
それは自分が”欲”を持つように、他者も”欲”を持つからだ。
自分の思い通りに相手が動くことは即ち、相手の”こう動きたい”を封じ込めることであるからして、そもそも実現不可能なのだ。
もしどうしても相手を思い通りに動かしたければ、相手の”こう動きたい”を上回る”欲”を満たしてやらねばならぬ。
ということは、相手の”欲”を見抜く必要性が発生し、見抜こうとする時点で相手のことをよく観るという行為に出るので、自分の”欲”よりも相手の”欲”を優先する目線に切り替わる。
その切り替わりこそが、「尊重」の精神。

つまり”欲”を持つことが、悪なのではなく、欲をもつからこそ、共存の世界を築けるということになる。
-自分勝手で欲深い人はイカん-という風潮があって、欲を押し込めよう押し込めようと人々は努めるが、その努めこそがイカん状態を生んでいるのではないでしょうか?

押しつけてもぺちゃんこにしても、”欲”そのものが消えることはないのです。
だったら頑として居着いているその”欲”を、よい方向に導いて昇華させてやればいい。
昇華の過程でいくらでも尊重の精神が学べるのだから。
無理に”欲”をなかったことにして、でも結局意外な所で”欲”が顔を出して、他者を傷つけたり反社会的な行動を起こしたりする方が不幸というものです。

人間なんて”欲”まみれ。
そうやって今年一年を過ごしてみるのはどうでしょう。