凹と凸

長いこと付き合いのあった友人がいたのだけど、どうしても許せないことがあって反論したら相手も応戦してきて、決着が付かずに絶縁、ということがある。

トラブルの前はどちらかが凸で、もう片方が凹というスタイルで、凹が常に譲りながら関係性が継続していた。




ある事象を前にして、凹は譲れない状態になった。
それを凸が想像もせず、いつものように自分を受け入れろと迫った結果、真っ向からぶつかる様相を呈した。
この場合、いつも譲ってしまうことで相手を勘違いさせる凹に問題であるのはモチロン、自分の意見をいつも受け入れられるとふんぞり返っている凸にはもっと問題がある。

凸は意見をハッキリ言ったり、行動するタイプなので注目を集めやすく、友人は多い。
しかしその友人達は出っ張った部分を常に受け入れてくれるわけではないので、凸にとってホンモノの友人ではない。
いつもやさしく迎え入れてくれる凹こそが心許せる友なのだ。
しかしその友達関係も、あくまで凹が凸を受け入れているという条件下でのみ成り立っている。

凹が自分の意見を通し始めると、凸は「凹のくせに」という言葉を使う。
なぜ「くせに」というかというと、凹は黙って言うことを聴くからこその存在価値だと思っているからだ。
凸の求める働き以外をするなんて、許さないというその姿勢。
なんと横柄な・・・。謙虚という言葉知っていますか?と問いたい。

支配力というのは人によって強さが違うらしい。
強い支配力のある人は、弱い支配力の人と一緒にいると、具合良く互いにかみ合うことが出来る。
だからなにも凹と凸がセットでいることが悪いとは思わない。
しかし、互いを思いやる想像力と感謝を忘れてはならない。
凸はいつも凹が受け入れてくれているから、自分は滞りなくリーダーシップを発揮できる。
凹はいつも凸がひっぱっていってくれるから、自分は迷うことなくついて行ける。

互いがそういう気持ちを持っていれば、時に凹が自分の意見を通したいと言い始めると、凸は「おや、珍しい、何だろう?」と耳を傾けられるのではないだろうか。

ずっと支配するもずっと支配されるもない。
時に支配し、時に支配されるを順繰りにやってこそ、生きて違う毎日が訪れるということだと思う。
人にはそれなりに思考に傾向はあるけれど、それを他者は勝手に決めつけず、色んな面があると心して相対していれば、絶縁などという事態には陥らないだろう。