「べき論」について考える

このブログの中で幾度となく「べき論」について述べてきました。
私個人は、ベキはなるだけ使わないようにしたいと言いました。
ところが、ある場面では、「べき」を使わないと文として成立しない、意味として通らないのです。
たくさんの文章を書く中で、改めて「べき論」について考えてみる必要性が出てきたので、真面目に向き合うことにします。

「べき」とは、”そうして当然だ”という考えです。

では「べき」はどこまで適用すればよいのでしょう?
実はその範囲こそが問題だったのです。

自分が支配できるのは、自分の手の届く範囲、即ち自分個人に限られます。
相手はまた別の世界に生きている。
ですから、少なくとも「べき」と言えるのは、自分という範囲なのです。
相手に「べき」を使うのは、自分は相手を支配する権限があるという思い上がりの精神であり、横暴極まりないです。
相手には「した方がいいんじゃないか」くらいが精一杯でしょう。

次に自分個人に投げかける「べき」ですが、これもまた線引きが重要で、すべてを「べき」で縛るとまるでプログラミングされたロボットのような生活をしなくてはいけなくなります。
朝6時に起きるベキ、朝食は食べるベキ、予習はすべき、友達を作るべき、・・・そんな人生息が詰まりますね。
ですから、ほとんど「べき」は使わなくて良い。
では、何処で使うのか?


自分の信念が折れそうなときです。


何かに取り組もうとして、でも挫折を経験することがあります。
気弱になった自分、迷い始めた自分、そんな自分を奮い立たせ再び前を向くように発破をかけるために「べき」はあるのです。
生きている以上誰だって弱気になるときがあります。
そのとき、一番頼りになるのは他でもない自分自身。
その自分に「オマエの使命はこれだぞ!だから負けるなよ」と言い聞かせる言葉が「べき」なんです。

”縛る”んじゃなくて”奮い立たせる”ためにある「べき」。
世間の使い方とはまたひと味違います。

言葉が生まれて、たくさんの人の間で揉まれて、いつの間にか変質してしまうことはよくあります。
変質の方向が、人が退化の方向に向かっていれば悪い意味へ、人が進化の方向に向かっていれば良い意味へ変わります。
日本は高度経済成長を経て、一見進化し豊かになったように見えますが、その実かなり画一的な方向、即ち頭の凝り固まった退化に向かっています。

力のある者、経済を握る者が大きな顔で世間を闊歩し、上位層の人に有利な政治や社会制度が整備される中で、”これが正解像だ”という凝り固まった概念が作られました。
その上で庶民は踊り、上位層を目指すべく「べき」を多発して自分も他人も概念にガチガチに当てはめようとしてきました。

そのとき、語気を強めるもっとも最適な言葉として「べき」が使われた結果、息苦しい存在としての「べき」が勢力を強めたのです。
でも、幸か不幸か上位層の勢力が徐々に衰え初め、新興勢も立ち向かえる社会インフラが整いつつあります。
ですから敢えてこの時期なら、過去の言葉の使い方を見直すことが出来るのではないでしょうか?

言葉は思想を表すための重要な存在です。
思想は柔軟で多種多様であることで、我々人間はどの種よりも豊かに多様性を持ってこの地球の中で生きていくことが出来る。
ならばなおさら、思想を縛ることは人類の首を絞めることになります。

自分に勇気を持たせるための言葉としての力をもつ「べき」。
正しく使ってみては如何でしょうか?