即座に、「いや、違う」と言ってしまう己の弱さはどこから来るのか?

相手から間違った考え、ゆがんだ思想を聞いたとき、「いや、それは違うでしょ」と即座に反応してしまう自分がいる。

”そんなの、当たり前でしょ?”と思うかもしれないが、考えてもみて欲しい。相手は正しいと思って言ってるのに、即座に否定されたとしたらどんな気持ちになるだろう?

すんなり”あっ、そうですか。私が間違えていました”とならないことは、火を見るよりも明らかである。”違うでしょ”の指摘に、”はっ?違うくねーよ”と反発心を抱き、こちらの指摘に耳を傾けることなど絶対にありえない。たとえこちらの指摘が正解だったとしても。

そう、人は自分を否定されるのを、極端に嫌う。合ってるか合ってないかではなく、否定される、肯定されるの方が優先される。特に、自分への信頼が弱い人ほど、外部からの攻めに激しく反応する。弱い犬ほど良く吠える原理。

ならば、親切心で正しい情報を伝えたい我々はどう振る舞えばいいのだろう?

こういうときほどオウム返し

間違ってることを無理に「その通り」ということは難しい。そこで登場するのがオウム返しだ。

相手「これって○○なんだよね」
私「○○なの?」

これなら、YESともNOとも言っておらず、かつ相手にはちゃんと聞いてましたよ、というメッセージが伝わるので、相手の感情を逆なでることがない。

その上で「私は、△△って聞いたことがあるんだけど、あなたはない?」
と正しさを揺さぶってみる。
もしくは、「もし、そうだとして、××のシチュエーションだとその考え方じゃ行き詰まると思うんだけど、そんなときはどうしたらいいと思う?」と相手に考えるよう促す。

「でも」や「だって」のような、引っかかる言葉を極力避けて、耳障りのいい言葉を連ねてみる。こうすれば相手も考えざるを獲ないので、一足飛びに考えを変えるまでいかなくとも、己の絶対的な解に少しは疑いを持つ。

そこまで行ってから、決定打を示せば、たいてい相手の考えは変わる。
人はいきなりAからBへと考えが切り替わるのではなく、A⇒A'⇒B'⇒Bという風に、段階的に考えが変わり、最後はBの考えがあたかも自分の解かのように錯覚する。だからこそ、出だしはマイルドに、可も無く不可も無いオウム返しがちょうどいい。

否定したい衝動を抑えるには?

とはいえ、段階を踏むことを、七面倒クサイと思う人もいるだろう。そしてそれ以上に、相手の考えを即座に否定したい衝動の抑え方が分からないのではないだろうか。

実は私も分からない。だから過去の失敗を参考にする。
正しいことを教えようと相手の考えを否定したら、相手がふくれっ面になった、「でも、でも、だって」を繰り返してきた。そんな徒労感を思い出して、否定する意味のなさを噛みしめる。

そのとき感じた苦みを糧に、なんとかのど元まででかかった「いや、それは違うでしょ」を飲み込む。

考えてもみたら、一人一人違うルートで知識を手に入れるのだから、間違えた情報を手にすることも十分考えうる。まったくもって完璧に情報を収集し、整理し、発信できるなど、期待する方が無理。

間違えたって良いじゃない。そういうゆとりある考えの下、間違いを教えてあげようと思えれば、もう少しテンポを遅らせて、話に入れるのだと思う。
大事なのは「ゆとり」。つまり、あなたは間違えてもOK、私も間違えてもOK、という優しさ。

人間らしい非効率な優しさを求める

もし、人生に間違えてもOKという優しさが欠けたなら、それこそアソビのない、緊張に包まれた日々となる。その緊張が会話の広がりを縛る。

徹底的に一つの正解を、それこそ最短の時間で獲る方法を求める。そこには、「否定されたくない」という人間への尊厳もクソもない。優先すべきは効率で、人の心などまるでないかのよう。

でも、それじゃあまりに寂しくないか?

どんな人もすべからく「自分を大切に思って欲しい」と願っている。そのささやかで根源的な願いをぶった切るように、「これが正解だ!」と高らかに正解プレートを掲げることは、ハートを持つ人間のやることなんだろうか。

やはり私は、人生間違えてもOKという人間への可能性を残した考え方が、金属で出来たロボットではない人間にはふさわしいと思う。だからコレを読んだ人、そして自分も、まずは否定しないで話を切り出す努力をして言って欲しいと願う。