主観を述べない訓練

心の繊細な人間がなぜ傷つくのかといえば、横暴な言葉を振りかざす無神経な人がいるからだ。
無神経な人は、こちらの情報を取れるだけ取って巧みに自分に都合良く変換する。

例えばこちらが「○○したい」と言えば、「欲張りだねー」「わがままだねー」と卑下し、「△△がよかった♪」と言えば、「趣味が悪い」と潰しにかかる。

そういう無用な攻撃を避けたければ、どうしたらいいか?と考えたとき、こちらの情報を極力遮断すればいいのではないか?と思った。

それは自分の主観を吐露しないことだ。とはいえ聞き役に徹しろということでもない。
客観を述べればいい。
というのも、聞き役はいいように扱われるが、客観性を帯びた考えは相手に一目置かれるだけでなく、相手に再考を促せ、かつこちらが主導権を握れるから。

しかし、自己が弱いと、つい自分の意見を述べたくなることがある。
例えば、「女性は家に入って、生涯夫に尽くすべき」といった論旨を誰かが述べたとする。
それは相手の意見であって自分の意見ではないと切り離すことが出来ない弱い自己の場合、即座に「そうは言っても、今は女性も働かないと経済基盤が弱いでしょう。だったら男女共同で家庭を回すべきじゃない?」と反対意見を述べたくなる。
もし、そのように回答すればまた相手は攻勢してきて、平行線になるか、横暴さを有している方が唐突に相手を人格攻撃し始める。
そうなるともう収拾がつかない。

だから事を有利に進めたいならば、なるだけ感情を抑え、口数を抑えることだ。
そして主観を排した風味をだす。
先の例だと、「今は5年前に比べて男性の総所得が減ったらしいじゃない。養育費や生活費が減らないなら誰かが働きに出る必要があるでしょ?それを奥さんが担っているのならば、減額された所得分、夫は家で働くという考え方で収支が合う気がするけど、アナタどう思う?」と言うと、また後の展開が変わってくる。

というのも、この意見は主観に乏しいから。
男性の総所得が減っているのは事実。教育費や生活費が減らないのも事実。その分を補っている主婦がいるのも事実。で、つじつま合わせると、経済活動の分散があるなら、家事活動の分散もありそうな?気がすると言っているだけ。

一方主観を織り込むと、自分の中の正義と相手の中の正義を戦わせていることになり、もし収束するならばどちらかの正義が折れたということになる。
折った方は勝ち誇った気持ちになるだろうが、折れた方は明確な理由がなければストレスを溜めることになる。
そんなの、どっちが正しいかなんて、誰にも分かるわけがない。

そこで主観を排し事実を入れることで、どう判断すればよいのかの道筋を立てられるだけでなく、関わっている人が主体的に考えることで、得られた解に納得がもたらされるのである。

我々はすぐカッとなったり、気持ちが潰されたりと移ろいやすい気と共に生活している。
その気は人生を豊かにしてくれることもあろうが、苦しくすることもある。
よい感情はたっぷりと情緒に浸り、思い行くまで堪能すればいい。
でも悪い感情はできるだけ気から遠ざけ、冷静に場を見極めることで無用な衝突を避けるのが懸命だ。

あまり訓練したことはないだろうが、主観を排するというのは人生に有効な解をもたらすように思う。
是非感情の乗り物に身を任せるだけの人生から、感情と理性を上手く乗りこなす人生に切り替えたいものだと思う。