美しい日本語とは

できる人間は日本語の使い方が違う!という話を聞いたことがある。
そこで最近、日本語の本を買いました。

デキる人は「言い回し」が凄い 日本語力向上会議著

なるほどーと思わされる表現がたくさん載っていました。
でね、ビジネスに不向きな日本語とビジネス向きの日本語、何が違うのが自分の中で比較してみたんです。

そしたら、ちょっとだけ気がつきました。

ウザい→うっとうしい or わずらわしい
お教えする→案内する or 説明する
お暇なときに→お手すきの折に

ビジネスに不向きな日本語は、自分に向けた言葉なんです。
一方ビジネス向きの日本語は、自分と相手の両方に向けた言葉なんです。

口に出すということは、誰かに耳に入り、認識されるということです。
自分じゃない他者が認識しやすい言葉というのは、感情を排し的を射た表現です。

「ウザい」は、自分の感情の中から排除したい感情が込められています。
「お教えする」は、自分の方が知っているという密かな優位性が入り込んでいます。
「お暇なときに」は、相手に依頼を遂行して欲しいけど、強く言えない卑屈性が潜んでいます。

伝えたいことは、客観的事象の解説にも関わらず、余分な感情がくっついてきている。
自分の感情を消化することがなによりも優先される表現だからこそ、ビジネスに不向きなのです。

言葉にする以上、聞く人にとって理解しやすい言葉選びをせねばなりません。

そもそもなぜ日本語一つで「デキる」か「デキない」かが決まるかというと、デキると評価するのは、言葉を耳にするのが自分以外の他者だからなのです。

他者にどう聞こえるのか、どう解釈されるのかに気を配った言葉というのは、それだけ強く他者を認識しているということですから、自分勝手に感情を吐く人間と比べて、もうその時点で随分先までリードしているのです。
常に大事なのは、他者からどう見えるかなのです。
ビジネスの成功は、どこまで他者の目線を理解できたかにかかっているのです。

ビジネス以外でも、人と接触するということは、そこに自分と他者が生じます。
人間は皆、認められる事が大好き(承認欲)です。
もし他者の目線を理解できなければ、他者の承認欲は満たされず、一緒にいることに意味を見いだされないでしょう。

人間同士が接点を持ち言葉を交わして満足のいく時間を過ごすというのは、ゴルフでいうカップインのようだと思います。
ゴルファーは、遠い遠いカップを狙って、ドライバーを選び、力加減を考え、ショットの向きを決めます。それはそれは繊細な作業です。
その努力の甲斐あって、何打かした後にカップに到達する。
これは、未知の存在である他者を知るために、様々な質問、ボディーランゲージの読み取りをしながら会話を進め、話題をいい所まで寄せたら、より詳細に他者を見極めながら会話を構築することと同義です。

自分、他者の両方が絶妙になってこそ、いい時間が過ごせるのです。
人に合わせること、へりくだることとは全く違う。

我々は未だ自分に向けた目線を外し、他者の側に立って状況を理解する有用性を知らない気がします。
だから会話が稚拙です。

このような日本語の本が出版され、日本語の使い方だけでデキる・デキないが決まるのはそれ故でしょう。
既に皆が出来ているなら、日本語だけでデキのよさは決まらないと思いますから。