あの人の言葉は感謝されるのに私の言葉はされない理由

同じ言葉でも、あの人が言ったら感謝されるのに、私が言ったら、スルーされる。
そんな経験はないだろうか?

私という人間がたいしたことのない存在だから?
もちろん、その可能性も否めはしない。

けれどもっと他のところに原因はある。

相手を叱る、と怒るの違い

たとえば、相手が何かをやらかして、それを指摘するとする。
そのとき、やらかしたことに腹を立てて感情のままに怒ったとしたら、相手はなんて思うだろう?

「やったことは悪いけど、そこまで声を上げなくったって…」と思うんじゃないだろうか。
こちらが「感情」を乗せたことを肌で読み取って、「ウサ晴らしてない?」という勘ぐりをしてくる。

それがもし「君はそれでいいと本気で思ってるのか?」と叱ったとしたら?

心のどこかで「あっ、この人は私の良識を信じてくれてる。それを見失ってる自分に『思い出せ!』って働きかけてくれてる!」
と思うんじゃないだろうか。

同じ相手の行いを咎めるとしても、怒るだと疑念を、叱るだと信頼を生み出している。

最終的にどちらが「(きちんと)咎めてくれて、ありがとう」と思うかは明白だ。

相談を聞くと相談を聴くの違い

相談に乗って欲しい、とお願いされたとき、相手の言い分を「うん、うん」と聞いて終わるのと、相手の本意を引き出す聴き方をするのは、どうだろう?

確かに感情が高ぶっているとき、誰かに聞いてもらえば落ち着く。
でも、それだけだ。

話す前と後で、自分は何も変わっていない。だとしたら、「聞いてくれた」ことだけにしか感謝できない。

だが、話を聴いてくれて、必要なところで本意を引き出す「問い」を投げかけてくれたとしたら?
話す前と後で、【気づき】という点でだいぶ違ってくるんじゃないだろうか。
「問い」が本意に近づくガイドとなり、「どうしたいのか」を明るく照らしてくれる。
そうなれば、頭はクリアとなり、もやもやしていた気が晴れる。

当然聴いてくれた相手に心底感謝するだろう。
なぜなら期待に見事に応えているからだ。

言葉の表をなぞらえても見えてこないもの

人はいつも表層と深層の2層をまとって、居る。

そしていつも我々が目にするのは表層のみ。
人々は表層を気にし、表層を言葉に出して、生きる。

別にそれでも困らなくはないが、なんとなく空虚感が漂う。
本当は深層の話をしたいんだ。

だったらすればいい。
そのために、最低でも二つの視点は手に入れておきたい。
自分の目線
相手の目線

この相手の目線を獲得することで、相手の言葉にならない苦悩や不安が分かり、相手の言わんとすること(深層)が少しずつわかるようになる。

この視点を獲得する意味は大きい。
誰しもが持ち得ていないからだ。
慣れない内は、ややこしく感じて、もどかしい気持ちに駆られるかもしれないが、それをもって余りある果実をもたらしてくれる。

ただし相手に「おもねり」や「妙な気づかい」をしてはいけない。
ヘンに苦労を思いやって、「いつも○○ちゃん大変ね~」とやれば、途端にいやらしさが出る。

そうではなく、まっすぐ相手を見据えてどんな苦労をしているのかな?どんな不安を抱えているのかな?と想像すること。

下手に言葉にしようとすると失敗する。まずは、考えることから。