付き合う人は選ぼう

親を無碍に出来ない、他人を冷たくあしらえない…という人は、正しい人付き合いができない。
というのも、相手が自分にとって有害か無害かを正しく判別できていないから。
もし有害な相手ならば、じわじわと自分が汚染されてしまう。
結局自分が苦しむことになる。

なぜこのような歪んだ構造にしがみついているのかといえば、心の奥に”親に認められたい””親に認められなかった不足分を他人に認められたい”という気持ちを秘めているから。

どぉしてもどぉしても叶えたいこの願望を前に、他者を無碍にして、2度目の見捨てられ感を味わいたくないから、必死で相手に従おうとする。

このようなタイプは、グループの中で「どぉでもいい」扱いを受けやすい。
強烈な個性を持つわけでもなく、とりわけ輝くわけでもなく、地味に生息している。
皆からは「コイツがいなくなっても構わない」と思われている。
心の底ではそんな扱いに憤慨しているものの、怒りを露わにして見捨てられるのが怖く、気弱に「そんなこと言わないで~」というのが精一杯。

付き合う相手をチェンジして、もっと対等でいられる人を選べばいいのに、イケテル・話題の集中しやすいヒーローの傍から離れようとしない。
自分に自信がないから、ヒーローと付き合える自分という虚像にすがるしかアイデンティティが保てない。
間違っても、地味グループに甘んじて対等な関係を築く自分というのは想像しない。

学校を卒業すれば・居住先が変われば、真っ先に忘れられ、”絆”が形成されない。
その事実が余計に本人の自信剥奪を加速する。
そこへ社会の軋轢や渦が生じたら、一体どうなるだろう?
きっと対処しきれずに、最悪のカードを選ぶだろう。
なにせ、優先度の高い問題は「正しい解を得る」ではなく「見捨てられないか」なのだから。

賢く生きるためには、論理が欠かせない。
自分の感情を横に置き、論理を構築して最適解を得られる人が社会に必要とされ、困難を乗り切ることが出来る。
その論理を前に、「見捨てられたくない」の霞がかかっては、問題の本質にたどりつくことすらままならない。

では、どうしたらいいかというと、「認められたい」という気持ちから卒業することだ。
確かに人は承認欲求を満たされることで、幸福感に浸り、自己肯定でき、生きている意味を感じる。
しかし今自分を取り囲む人々は、こちらの欲求を満たすことには僅かにも貢献せず、己の欲求を満たすためだけにこちらを利用しているのだ。
どんなに相手がイケテル人であっても、実際にこちらに何の幸福感ももたらさないのであれば、意味などないのではないか?

-人間は皆平等に扱いましょう-神話に踊らされてはならない。
人は選ぶのである。
選ぶことと差別することは違う。
自分が心地よい相手と時間を過ごし幸福を感じることは、自分が心地の悪い人間を排除し潰しにかかるのとは別物だ。
守るべきはまず自分であり、相手のご機嫌を損ねないために自分を殺して偽って笑顔を見せる事の方が、真の裏切り行為である。

人生はすべて自分で選んで進んでいく。
当然つきあう人も選んでいく。
それは意志を持った人間として、幸せを求める人として、当然の行いなのである。