友達がいないの本当の意味

友達が大勢いる人は、人間的に魅力がある・人格が出来ている。
まともな対人関係を築くことができれば、親友の一人や二人はいる。

そんな友達幻想に振り回されて、今日もまた「友達がいない」と悩む人々がいる。

私から見ると友達がいなくて、友達が欲しい人というのにはある一定の傾向があるように見える。

傾向1:自分は人を裏切らないし、約束を守るという意識が強い。
傾向2:他人に自分がかけるのと同等の配慮を求める
傾向3:腹を割って話すことが、本当の友達だと思っている
傾向4:自分の価値観以外を許容する力がない
傾向5:論理立てが下手

常に影ながら強く「自分」を押し出し、自分を擁護してくれることを欲している。
こういう人は得てして思考が固く「べき論」で塗り固められている。

例えば友人が違法ドラッグをやっていたとしよう。
友達のいない人は、友人をいきなり否定する。「それ犯罪じゃん!」「ありえないし」「アンタやっていること理解してんの?」。
なぜ否定するかというと、自分がドラッグをしている人を許容することができないからだ。
友人が不幸に落ちないで欲しいからではない。
人間は自分が許容できないものに対して、真っ向から否定をしてしまう。
それが「自分はドラッグなんて認めないまっとうな人間だ」と認識する最も手早い手段だからだ。
しかし友人は自分の正当化の為に吐かれた台詞など、見向きもしない。
そこには発信者のエゴしかないのだから。

エゴで他人をコントロールしようとすれば、その疎ましさに友人は逃げてしまう。
友達のいない人はわずかに残る友人を手放すまいと、必死に追いかける。
追いかけられればられる程、友人は益々遠のいていく。で、最後絶縁。

ここまで激しいケースは稀であろうが、大なり小なり価値観の違いを許容できないことが、人と人の間の亀裂を大きくし、破綻へ導くということはある。
自分が正しいと思うことが、必ずしも相手に正しいとは限らないし、もちろん相手がどのような別の正しいを持とうとも自由である。
その自由さを受け入れられないのであれば、友達とは自分の完全コピー以外成立しないことになる。

友達がいないとは、我が強すぎるあまり他者を認めることが出来ないという意味である。
魅力とか、人格ではない。

人の話にどれだけ耳を傾けられるかが一つキーポイントになるだろう。
けれどもけして相手に迎合するわけでも、一方的に従うわけでもない。
自分を持ったまま、相手の話を聴く。
これができて初めて、人付き合いができるのだと思います。