自分が人に嫌われる訳

いじめられたわけじゃない、友達がいなかったわけじゃない。けど、自分は人に嫌われてると、正確に言えば”どーでもいい”と思われていると感じる。
たぶん、学生時代の私を覚えている人なんていないだろう。

顔を見れば、「あっ、なんかそんな感じの人いたねー」くらい。
卒業してから関わることもなく、思い出されることもなく、人の意識から抹殺されている私。

若い頃は、どうして人から好かれないのか?全然分からなかった。

けど、今ならなんとなく分かる。
人との心理的距離の取り方がオカシイのだ。

近づいてきて欲しいと思う時に来ず、逆に近づいてきて欲しくない時にべったりする。
そんな私の存在は、ただの不協和音であったろう。

なしてまた、そげにへんちくりんな距離の取り方をしていたかと言うと
人生のスタートに、「たとえ相手が親であっても、甘えて信じて頼ってはいけませんよ」というメッセージを親から受け取ったからだ。
”そっか、人は信じちゃいけないんだ”としっかりと理解した優秀な私は、他人に対し常に心のバリアを張り、そつなく答えるし礼儀も正しいけど、心に訴えかけてこない、印象の薄い人として人前に立っていた。
でも所詮私も人。やっぱり人恋しくなって、ちょっと私を好いてくれてるなーと思う相手には、幼いときに親に話を聞いてもらえなかった想いを消化すべく、「ねぇねぇ、あのね・・・」と聞いてもらうことを要求する。
相手にも当然キャパシティーがあるから、どこかで「うーん、ちょっと無理」と感じられて、知らない間に距離を置かれる。

そして、私はまた独りになる。
の繰り返し。

結局んところ、人間に対する不信と過度に聞いて欲しいという甘えを解消しない限り、礼儀正しかろうと物品を送ろうと人は私を好いてはくれない。
そして、好いて欲しいと思っている限りは、好かれることもない。
だって、好いて欲しいことにこだわっているということは、前提に「私はどうせ好かれない」があるから。
そんな、ハナから自分を否定している人間、誰も興味を持たない。

私を改正するのは、私。
人を信じる力を手に入れるも、入れぬも自分次第。
正直、人を信じるなんて、怖い。
人に嫌われるんも、怖い。
でも、生きていかなければならない。
何かを捨て、何かを獲得しなければ、この生き方になんら変化は起こらない。
だったら、勇気を持つことだ。

下手に好かれたいと思う気持ちは捨てる。
嫌われたっていいじゃない。今の自分のままいるよりは。