他者に寛容でなければ自分にも寛容になれない

岩手の議員がブログ上で病院に対する不満をぶちまけ、会計しないまま帰宅したというニュースに関連して、この議員が今朝方ダムの近くで亡くなっていたという報道があった。

この議員は、「人を番号で呼ぶのは囚人扱いしているようでけしからん。そのような無礼があるならば会計をすっぽかしてもよい」と、自分の考えを押し通した。

しかし、公共機関や病院で不満に思うことはそう珍しくないし、苦情を言って改善を要求すればいいだけのことである。
「自分(議員)の考えもあるが、病院の考えもあるのだから」という寛容な考えを持つことが出来れば、会計のすっぽかしという横暴には出なかったであろう。

相手に対して、一切の間違いを許さず、完璧なまでの対応を求める人というのは、その期待が裏切られると烈火の如く怒り狂う。
それがもし立場が反転して、相手が正しくて自分が間違えているとなったらどうなるだろう?
「相手は間違えた自分を許すことなく、自分は生涯その間違いを背負っていかねばならない、もしかしたら社会的立場を完全に失うかも知れない」と考えるのではないだろうか。

即ち、相手に対して緩く考えることが出来ない人は、自分に対しても同じ見方をするので、「自分はオワッタ」という極論に達するのである。

誰だって最善を尽くしても尚、取りこぼすこと・意識から外れてしまうことはある。
そのために他者がいて、その他者が注意をしてくれる。
そうやって、自分の考えの足りない所を補い、より完成度の高い商品やサービスが出来るようになる。

人間としての「あそび」のない人は、全てのことがスパーンスパーンと右へ左へ大揺れする。
そんなのでは神経がもたない。
もっと寛容に、それでいて良き方向を目指した生き方が出来れば、このような残念な事件は起きなかっただろう。