自分こそが正義という人は衝突人生を歩む

人と深くつきあえない、人に距離を置かれる、人と衝突ばかりすると悩んでいる人、そこそこいるのではないだろうか?
その人に共通する特徴は、

「我が考えこそが正義」という考え

である。

-人は殺してはいけないし、迷惑を掛けてもいけない。信号は守らなければならないし、親孝行はせねばらならない。仕事は誠意をもって取り組まねばならないし、約束は守らなければならない。-

これらの倫理観として植え付けられたものの延長に自分の考えを置くので、「絶対に私は正しい!」となるのである。
口癖は「ありえない」「マジで?」「○○はオカシイ」「絶対~」「△されると困る」だ。
解が一つだと思っているから、それ以外の解を自分の中に取り入れて熟考するということがなく、パチーンパチーンと全て表面ではたき返す排他的表現をするのである。

相手はその人の前では違う考えを持つことを否定されるのであるから、居心地も悪いだろうし、誇りに思っていることを否定されたなら強い怒りが湧くだろう。
とすれば、表面的付き合い、付き合いを遠慮する、怒るのどれかに終始し、お互いにとって実のある時間を過ごすことができない。

自分が絶対正しいと思う人は、是非哲学を学んでみるといい。
哲学は解のない思考だ。
例えば、列車のブレーキが壊れて停止できないとき、線路が二手に分かれている。
左に行けば、線路の上を歩いている人が1人で、右に行けば、線路の上を歩いている人が10人だとする。どちらに舵を切ればいいのか?という命題が与えられたとき、功利主義の考え方ならば左にハンドルを切るだろう。
しかし、10人の命を救うために一人の命が犠牲になっても良いのか?というと、人の命は等しく重いのだから、そうとも言えない。
そして1人の命を犠牲にしてよいという絶対的な保証はどこにもない。
これが現実に起こる問題なのだ。

嫁が悪いか姑が悪いか、転職するのがいいか留まるのかいいか、友情を続けるのが良いか縁切りがいいかといった問題は先のように、明快な解というのがないのである。
従って双方の意見を聞き、実はお互いに求めているものが違っていて調整が可能ではないか、妥協できる点があるのではないかと探り、最上の解を考えることによって見つけ出すことこそが、人間関係を円滑にする最も適した方法である。

こんな話がある。
ある姉妹が親からオレンジをもらうことになった。姉は「自分は長女だからオレンジをもらう権利がある」と主張し、妹は「私はまだオレンジを食べたことがないから、オレンジをもらう権利がある」と主張した。結局双方が激しくぶつかり合い、結果姉妹の縁は切られてしまった。後に姉と妹にこの話を聞くと、姉は「オレンジマーマレードのジャムが作りたかったので、オレンジの皮が必要だった」と言い、妹は「オレンジの実を食べたかった」と言った。
最初から衝突しあうことなく、オレンジは分けられたのである。

表面だけの言い分を以て、相手の考えを断定してしまうと、相手の本意を見逃してしまうことがあるので、よく話を聞きましょうねという最たる例である。
実はこれと同じことは、日常で頻発している。
-会社のいけ好かない、イジワルばかり言う人は事ある毎にこちらを否定してくるが、その人の本意は「オマエが嫌い」ではなく「会社で評価されないことが辛い」である-といったことはそう珍しいことではない。
表面だけ捉えて愚痴っぽい、攻撃的と決めつけるのは時期尚早である。

ここまで読まれて、自分の正義に疑いを持ち始めた人がいたとしたら、是非その考えを加速して、自分の言動を見直して欲しいと思う。
そして自分の正義があるように、相手にも正義があるという他者の発見の境地にたどり着いた際には、相手からみた正義の世界というものを詳しく観て欲しいと思う。
というのも、相手の世界が見えるということは、相手の代わりに相手を語れるということであり、それは相手にとって心強い味方が登場したことに他ならないからだ。

世界広しと言えども、自分のことを語る他人というのは、そう滅多に出会えるものではない。
貴重な出会いに遭遇した相手は強く貴方に好意を抱き、信頼を寄せるだろう。
そうなったとき初めて、深い人間づきあいは始まるのである。