古今東西ここかしこ、どこにでもうわさ話はついて回る。
なぜ、うわさ話がでるかというと、それを嬉々として求める人がいるからだ。
一方で、うわさ話は俗っぽいと嫌う人もいる。
自分を振り返ると、確かにどこかで俗っぽいと言われる話や、不幸ネタを知ろうとするところもあるし、たまには話題に上る。
なぜって、そこには必ず心理的報酬が存在するから。
特に自分が不幸であればあるほど、他人が不幸と分かるとほっとしたり、優越感を感じたりできる。
足下のおぼつかない弱い我をかろうじて、現実の世界に押しとどめるのが、このうわさ話だったりする。
情けないが私という存在が崩壊しない理由の一つに、私より不幸な人々がいるという事実を私が認識しているから がある。
私は幼いときから常に比較の世界の中に生きてきた。
従って、比較が日常的に我を肯定する手段となっているのだ。
もちろん、今ではその比較にキリがないこと、自信の元にはなりえないことは重々承知している。
かといって、比較クセがそう簡単に抜けるものではない。
おそらく私の心の中に起こっていることは、凡人には起こりがちだと言えよう。
そして足下のおぼつかない度合いが大きければ大きいほど、人々は比較の世界に足を突っ込む。
たまに四六時中話すネタがうわさ話という人がいるが、その人の心の中の不安定さは余程のものと推測される。
その人は、中毒的にうわさ話を知り・話すことで、己の心の不安定さを払拭しようと努める。
しかし、どれだけうわさ話をしたところで、「へぇ~」以外の反応は得られずまた悶々と元の不安定な世界に戻っていく。
けどそれじゃ我が崩壊するので、もっとうわさ話を求めて彷徨うこととなる。
結果、一生実りのないうわさドラッグにおぼれた人生となる。
あいだみつを氏が言うように、「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」。
きっとそのうわさ好きの人も世間の尺度から見て、そうは不幸でない可能性が高いのに、自ら不幸と感じてしまって、ドラッグから足を洗えずにいる。
そーいう人は、うわさ話より、仏門の世界を学んだ方が幸せに近づけると思うけどなー。
何も欲のない世界のなんと自由なことか。
比較のない、とらわれのない世界がこの世の最も幸せな場所である。
自分の子供が有名進学校に行くことなど、へでもない。
私自身は今、そのうわさから距離をおくために、心を「無」にするにはどうしたらいいかを考えている。
気を抜けば、雑念が陥入し我を汚す。
雑念が入るのは、私が弱いから。なにかに証拠固めされて、「アンタはダイジョーブ」とか言われたいから。
でも、そんなの幻想。ダイジョーブも幻想。
我の弱さに衣を着せたい衝動にかられつつ、我を無にすることで最強の強さを手に入れようとする毎日。
だから生きていることは、毎日修行。