不幸じゃないのは、幸せであることとは違います

結婚相手の条件に、「暴力を振るわなくて、稼いできてくれて、たばこを吸わない」を挙げる人を見かける度、あたまの中におおきなが浮かびます。

それって、一人でいるのと何が違うん?
一人なら、暴力を振るわれることもたばこの煙を吸うことも、ないし、働いていればお金は入ってくるよ?

現状の快適さがキープできればいい、というなら無理に結婚しなくてもいいんじゃないか、と思うのです。

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不幸じゃなくなるための結婚

暴力を振るわれる、生活に困窮する、不快な空間に閉じ込められることは、いうまでもなく不幸です。では、暴力を振るわれなくて、生活に困らなくて、不快とまではいわない空間に居られれば幸せか?というと、それは違います。

不幸じゃなくなったからといって、幸せになれるんじゃありません。

ところが長い間不幸に晒されると、不幸じゃなくなれば幸せになれるんじゃないか?という錯覚に陥ります。だから、希望するレベルがものすごく下がります。

これを世間一般には、「理想が下がった」というのかもしれませんが、そうやって結婚に至ったケースは、のちのち文句が出やすいです。

不幸じゃなくなることを頑張る人の生き方

不幸じゃなくなるために人々が取る行為は、一にも二にも不幸に陥りそうな芽を摘み取ることです。なにか不幸の兆しが見え始めると、電光石火のごとく、排除しようとします。

具体的には、「文句を言う」。

文句を言って、相手を変えて、事態の改善を図ろうとするのです。そして不思議なくらい自分では動こうとしません。事態を改善する当事者として自分をカウントしていないんですね。

100%相手に寄りかかった人生、これが不幸じゃなくなろうとする人の生き方です。

でも、なにか違和感を感じませんか?他人に寄りかかった生き方をしていて、幸せを感じることなんてあるんだろうか、と。

不幸じゃなくなることを止めませんか?

幸せって何か、考えたことありますか?

私は、幸せとは「人の輪の中にいるのを実感できること」だと思います。みんながいて、私もいて、いろんな人の考えがあって、そのどれもが潰されることなく、活かされるように話し合えることが幸せ。

つまり参加者全員が、「話し合いに参加する」すなわち「当事者として考え、動く」ことが前提です。不幸じゃなくなるために結婚した人の特徴である「自分では動こうとしない」の反対です。

ですから私の考えでいくと、不幸じゃなくなろうといくら頑張っても、幸せにはなれません。むしろ反対側に飛び移るくらい大胆に振る舞ってこそ、幸せをものにできる。

旧来の衣を脱ぎ捨て、新しい価値感に身をさらしたとき、幸せというものに触れることができると思うのです。だから、不幸じゃなくなることは止めませんか?と言いたい。

幸せの真髄

人にうらやましがられる結婚をしたいと思ってる人は考え直した方がいい、と進言します。人様が見るのは、しょせん「皮」の世界。お金がある、若い、美形だ、由緒ある家柄だ、といった「皮」には、不幸じゃなくなる要素は備わっていても、幸せを引き寄せる要素は何一つありません。

幸せは、外からはっきり見えないし、言葉にもできません。つまりうらやましがられるほど表立って現れてはこない。ひっそりと地味に息づいてます。

たとえば互いに見つめ合い、慈しみあう瞬間。そういうささやかさにこそ「幸せ」の真髄は存在しうるのです。

幸せの一歩

私達はいつでも一人取り残されることを恐れ、人の輪に迎え入れられると安らぎます。それほど、誰かに受け入れられることは、人生における重要事項なのだと、私は思います。

けれど、こと結婚に至っては、「受け入れられる」のは当然として、地位・お金・美醜といった「皮」の善し悪しを推し量ろうとします。それは、中身の入っていないケチャップを買おうとしているのと同じではないでしょうか。

「皮」が立派だったとして、肝心の中身がなければ、それがなんだというのでしょう。

あなたは容器の中に、詰まっていて欲しいものは何だと思いますか。どのように受け入れ・受け入れられれば「中身が入ってる」と実感できますか?

その答えを探してみてください。それがあなたならではの「幸せ」の一歩です。