人の見た目に好き嫌いは持っていいけど、けなしちゃいけない

恋人や結婚相手を探すとき、見た目を重視すると言うと、批判を浴びる。
確かに、異常なまでに美しい容姿を求めるのは現実離れした選択である。
しかし、見た目というのは案外心理的影響が大きいので、見るのが嫌だとか気分が落ち込むといった感情がわき起こるのであれば、それはやめておいた方がいい。

こういうと、外見の差別だ!といい始める人がいる。

外見で今までつらい思いをしてきた人は、容姿がそこまで大きい恋愛ファクターであるなら、自分には可能性がないと言われているようで、腹立たしいのであろう。

しかし視覚を有し、美を感じる感性を持つ我々は、少なからず見た目にこだわり生きている。
美術品しかり、インテリアしかり。
機能さえ果たせば、どんな外観でも良いという人はいないだろう。
もし部屋のインテリアが地獄絵図だった場合、大半の人はなんらかの精神負担が生じることは想像するに難くない。

だから自分が多くの時間を共有するであろう人間に対し、ある程度の容姿を求めることはしごく当たり前のことである。

では、容姿についてどのように考えていけば、すべての人が排除さえることのない社会なのか?

それは排除することそのものをやめることだ。
いくら嫌悪を感じる容姿であったとしても、それをけなす権利を我々は有していない。
黙って離れる、それが賢明な人間のやる行為だ。
それと、比較的容姿に恵まれない人は、そのことで自分を粗末に扱わない。むしろ人に大切にされない分、自分が大切にする。
不思議なもので、自分が大切にしていると、他人も「大切かも?」と思ってくれる。
自分が欠点だと思っているところでさえ、「チャーミング」と評してくれる。

何事もそうだが足を踏み入れすぎると、よくない方向へ走る。
他人の容姿について関わりすぎれば過ぎるほど、極端な美化や批判などが行われ、依存や傷つけに発展する。

視覚で判断する力を持つ人としての能力を否定せず、かといって視覚だけに傾倒し、人を見定めることをしないという絶妙のバランス感が必要なのだと思います。