もっともっと を求めない

私は自分が損な生き方してんなーと思います。
どこが損かというと、「相手から好かれたいあまり、自分から尽くしすぎてる」。
尽くすといっても、相手の言うことに従うとかってことじゃーありません。
あからさまな要求は、断固としてつっぱねるくらいの勇気はあります。

でもつっぱねられない要求があります。それはひっそりとした要求。
そしてひっそりとしていればしているほど、その要求をくみ取らなきゃという気持ちに駆り立てられるのです。

だから、他人から「前につれてってくれた○○のレストランって最近どうなんだろ?」なんて話を振られると、もう一度連れて行って欲しいのかなと自動解釈して、「変わりないんじゃない。今度いってみる?」とかいつの間にか誘っちゃってる。行きたいのはむしろ相手さんなんだけどね。

そうやって、どんどん自分の仕事を増やしていきすぎて、どっかで「なんで私だけ損な役割!」とかキレてる。おバカなんだと思います。

他人のレストランに行きたい気持ちまで、頼まれてもいないのに自分が背負ってしまっている。要らぬ気遣いです。
そして、他人は私が一度気遣いを見せると、次からそれをしてくれて当たり前みたいな態度をとる。もちろん、当たり前ですから、大して感謝もしません。
それどころか、横柄さが加速する。
私は相手に良くしたつもりが、自分が軽んじられる結果になってる。
なんとも切ないです。

数年前に「ツンデレ」という単語が生まれました。
このときは、何言ってんだ?くらいに思っていました。
でも今はその効果が分かります。
いつもはツンツンして冷たいのに、ある状況になるとデレデレすると、人はその時間がものすごく貴重なものに感じる。一種のギャップによるプラス効果です。
同じ優しいでもいつもの優しさと滅多にない優しさでは、ありがたみが全然違う。
裏を返せば、いつも優しいということは、若干損ということでもあるのです。

では、自分はどのように振る舞っているかというと、常に相手に良くしているのですから、いつも優しいということになる。
当然、相手の中で私の価値は下落傾向。大切にされるわけがありません。

私は生き方を間違っている。
自分が認められたいから、もっともっとの気持ちが抑えられず、必死で相手の意を汲もう、汲みすぎようとあがきすぎてる。
そんな自分への処方箋は、「認められることをあきらめなはれ。他人は他人ですから」。

なにも他人さんに優しくすることなんてない。
レストランに行きたいなら、他人さんが誘えばええだけのこと。
勝手に他人さんの誘うという仕事を取らない、他人さんのしたいようにさせる。

これを書いているとき、過干渉の母を思い出しました。
そういえば、私の自主性より、母の気遣いの方が優先された。
けがをしないように、失敗しないように・・・。
こんなところにまで、子育ての影響が回り回ってきてる。ウホッ。