存在感のない人について、再考察

どんなにたくさん話題を提供しても、存在感のない人はない。
相手の役に立つよう振る舞っても、存在を認められない。
なぜなんだろう?と思い悩む人、まぁまぁいると思う。

その人たちは、自分の存在感が増えて、人から注目されることを望んでいる。


じゃあ、実際に存在感のある人は何を望んでいるかというと、商売に結びつくのでもなければ注目されることは望んでいない。放っておいて欲しいのだ。

欲する人には与えられず、欲しない人には与えられる矛盾。

なにがどーなって、存在感のある人な存在感のある存在になれてるのかというと、他人に対する意識の向け方だと思う。
存在感のある人は、有形無形、有言無言、ありとあらゆるかたちで、無意識に相手をもてなしている。
相手はもてなされていることをなんとなく感じ取って、好かれているなら好いて返そうという意識が働き、場がよい感じになる。
一緒に居てよい感じになれることは稀だから、人々はその世界に魅了される。
結果、存在感のある人を求めて人が群がり、以前にもまして存在感が出る。

もてなす方法は、美しいものを見せるでも、ノリノリの音楽を奏でるでも、長所を認めてくれるでも、存在を認めてくれるでもなんでもいい。
要するに、相手が楽しいと感じてくれさえいいのだから。

反対に、もてなしてるつもりがまったくもてなしていない状況とは、相手の嗜好をまったく無視した我欲の押しつけである。
不潔な見た目、趣味に合わない音楽の強制、自慢話、相手が理解できないネタのオンパレード。
口を動かしてしゃべっていることなんて、相手にとっちゃーどぅでもいいこと。
話している内容が全て。
無駄口叩いてる相手に対し、人々はうっとうしさがつのり、脳は騒音を聞いたときと同じ処理を始める。記憶に残らないどころか、そもそも聞いてない。

そして、もてなすのは大変だから、べたべたとしたつきあいはせず、緩急をハッキリさせたつきあいをする。
これによって、たまに会えるいい気分にさせてくれる人の存在感はぐっと増す。

存在感がないと嘆く人は、例外なく人をもてなすことができていない。
もてなしと、同調やへつらいを混同している人もいる。
同調は相手を嫌な気分にさせない手段であって、相手を楽しませる手段じゃない。
楽しませてナンボ。
素のままの自分を好いてくれるのなんて、親くらい。
他人にへんな期待をして、自分の方へ向いてもらおうなんて、現実味のない絵空事。

いい加減、存在感のある人になりたいという幻想を捨てなはれ。
そうせんと、存在感は出てこんよ。