「意思」と「エゴ」は似て非なるもの

--自分の要求を通す--
をしようとしたとき、要求によってそれは「意思」か「エゴ」かに分かれる。

要求が「今日○○をやる」の場合は意思で、「食後から就寝までゲームをやる」の場合はエゴ。
一体何が違うのか?

意思を通そうとすると、それなりに気合いもいるし困難に立ち向かう心も必要。

代わりに得がたい何かを手に入れることが出来る。
一方でエゴを通すのはとってもカンタン。気合いは要らないし困難などない。
ただ楽しくのらーりくらーりいればよい。

意思の力で描く未来と、エゴの力でなし崩し的にそうなった未来。どっちも未来。

さて、我々は意思とエゴのどちらに多く支配されているのだろうか。

世の中で成功を手に入れた、充実を手に入れた人々は間違いなく「意思」の力で未来を切り開いている。
一方、常に愚痴を吐き、納得しない人生を送る人は「エゴ」に引きづられて今まで来ている。

もし自分の人生が不満の多きものの場合、エゴによる部分が大きいのだと自覚することが大事だ。
そして意思を持てない理由を知ることが大事だ。

親が過保護で先回りしてなんでもやってもらった場合、意思の力が育つ機会に恵まれない。
また親がネグレクトで意思を通すための支えを十分に得られなかった場合、意思を育てる基盤が極めて貧弱。

親の人間性が出来ていないと子の人格がイマイチになるのは、これ故かもしれない。

しかし人間はいつか自立しなければならない。
親のせい、運命のせいなどと言ってられるのは成人するまで。
自分の人格を高めるためには、与えられなかったものを自らが充当することだ。

こうやって自分を振り返ると、
私は過保護の親に、配偶者Sはネグレクトの親に育てられたので、共に欠陥人間だ。
その欠陥度合いが合ったからこそ、一緒にいるのかもしれない。

モテる人というのは、「意思」の力を十分に育てられる親の元に生まれ、そのように育った人だと思う。
そして「意思」を持つ者どうしが惹かれ合い、家族をつくる。
そのカップルの周りに、「意思」の力の弱い・またはナイ人が群がり、「私の好きになった人には好きになってもらえない」と嘆くのだ。

容姿は人の心理に多大なる影響を与えるために、「意思」がなくても「意思」のある人と結ばれるケースはあろう。
ただ、結婚は見た目だけで継続するものではないから、その人が本当に容姿しかもち合わせていない場合、遠くない未来その生活は破綻する。

「意思」こそが人の人生も運命も経済性も左右するものだと思う。
意思の力について、これからも思考を深めていきたい。