親は子を愛するなんてウソ、家庭の中にもイジメはある!

ーイジメは学校や社会の中にあるのであって、家庭は安らげる場所ー
というのが我々の”常識”です。家庭こそが自分の居場所、と感じている人は少なくありません。

しかし、2016年、警察が摘発した殺人事件の55%が親族間で起きていました。過半数を超える殺意が社会ではなく家庭にあった、となれば、「家庭は安らげる場所」という考えが現実と合っていない可能性も考えられます。

当たり前としてきた「親は子を愛する」というフィルタを除いて考えると、そこには社会と同じ苛烈な社会が存在していたことに今更ながらに気づきます。

家庭の中に存在するイジメ

イジメと聞いて、どんな行為を思い浮かべますか?

たとえば学校におけるイジメの代表格は、「無視」。それ以外に思いつくのは、いいように利用する「パシリ」。ほかには憂さ晴らしのための「ダメ出し」。反論してこないのをいいことに弱い子を「バカ扱い」。窃盗や万引きを強いる「命令」。

こんなのは血がつながっていないからやれることなんだ、と思うでしょう?
でも形を変えて、家庭の中にもしっかりと存在しています。

【無視】
親が期待を掛けて「エリートになってママたちを喜ばしてね」といったり、テストで満点とったら「次も100点とってね」というのは、明らかに今の子供の気持ちに対する「無視」です。子供は未来がどうなるかなんて分からないし、来週のテストでさえ100点をとれるかは分かりません。「そんなこといわれても分からないよ…」という気持ちをないものとするのは、学校における「話しかけても話しかけられたこと自体をないものとする」よりは弱いダメージかもしれませんが、存在の否定という傷を刻みます。

【パシリ】
親の仕事を手伝わせて、十分な報酬(お礼や承認を与える)をせずにいるのは、子供を道具として使う「パシリ」です。子供はやってもやっても充実感を得られず、ただただ働かされる現実に、我が存在の意義を見失います。マシーンのようにこき使われると、利用されるだけの人生に心がへたります。

【ダメだし】
子供が親の”常識”からズレた言動をしてしまったとき、訂正を促されるのではなく、「はしたない」「みっともない」と斬り捨てらたとすれば、それはただの「ダメだし」です。子供がなにゆえ子供か、というと、知らないことが多く未熟だからです。ところが完璧主義でいたい親は、その未熟さを包み込むだけの懐がありません。だから”常識”からズレた子供が悪いとして、汚物をトイレに流すように、子供の”過ち”をさっさと目の前から消し去ろうとします。消される側は、いてもたってもいられません。

【バカ扱い】
「近所の○○ちゃんは大会で優勝した」「友人の息子は○○大に現役で合格した」といった言葉を口にするのは、我が子に対する「バカ扱い」です。というと「?」と思うかもしれません。
たしかに親がそのようなことを口に出すのは、それを聞いて一念発起して頑張って欲しい!という願いからだと感じます。でも根底にあるのは、「あなた(子供)は普通にしていたら、大会で優勝したり、現役でいい大学に合格したりできないでしょ?」という否定です。うっすらと否定された子供は、ますます自分はダメな人間なんだと落ち込みます。

【命令】
「将来は面倒見てね」「○○ちゃんが結婚して3世代で住むのが夢なの」。将来が不安な親は、ことあるごとに「将来はこうしてね」をつぶやきます。
でも子供は自由に生きたい。海外赴任したいかもしれないし、遠く離れた他県に住んでみたいかもしれない。新しい世代には新しい世代のライフスタイルがあります。それをこうあれ!と決めつけるのは、真綿で首を絞める「命令」です。一気に締められるのと違って、じわりじわり締めあげられるので、正面切って反抗する機会を得られず、人生を乗っ取られてるような気持ち悪さに見舞われます。

学校や社会ほどのダイレクトさはなくても、強き親が弱き子供を支配するというイジメは、イジメるつもりなど毛頭ない普通の家庭にも存在しているのです。

厳しい環境で生き抜くには

ということは、どんな近しい関係であれ、相手は脅威となりうる存在だということです。

だからこそ、「分かってくれるだろう」とか「やってくれるだろう」といった甘えを排し、どうやれば相手に動いてもらえるだろうか、を模索しなければならない、と思うのです。

いいかえるなら、どうやって相手を承認していけばいいか、を誰に対しでも考え続ける責任を背負っている。

最初から、相手に気を遣い、相手を認め、礼を欠かさずにおれば、怒りを買うことも、足蹴にされたと勘違いされることも、無礼を働かれたと思われることもありません。リスクをコントロールできます。

避けられぬ人間のエゴ

親子は以心伝心で一体化していられると考えるのは、下の者が上の者に物を言わぬ封建社会の名残です。individual(個)という概念が導入され、一人一人が違う考えを持つという社会なった今、たとえ親子であっても、力の競り合いは生じます。そして強き者が弱き者を制する。

もし弱き者のままのポジションを抜けたいと思うなら、性善説だったり親子愛といった「受け入れてくれることが前提」の社会はすっぱり諦めましょう。諦めて、「受け入れてくれる」フィルターを見事はぎ取ることができたとき、世の中はいかに苛烈な社会か、という現実が飛び込んできます。

あなたの親だって、条件が重なれば、あなたを犠牲にするかもしれない。人間とは、そういうエゴの塊なのです。