人のことは気遣っても、自分は気遣われない不文律

-他人が良い状態なれるように私に出来ることをやる-
これって、とってもイイ性格の人だと思うでしょ?
でも、見返りなくそれをやり続けるのって、無理、できない。
本当は相手が自分に優しくして欲しいから、自分にも同じように接して欲しいから、だからやってる。
強欲なんです。
そして他人のために尽くし続けられる人というのは、この世に存在しない。

いつも人を気遣って、気遣って、相手にプラスになりそうなことをやって、挙げ句お礼も言われず終わることを何度も何度も経験したのに、学習能力のない自分。

”相手に返してもらえるかも”という甘い幻想からなかなか目が覚めない自分。
米つきバッタみたいに、地面に頭をすりつけてすりつけて、一体私はなにを求めているんだろう?

自分に対して
「オマエ、ゴミ」「死ね」「生きる価値なし」と言い続けてる。
いつでも死にたくて、なんで生まれちゃったんだろう?って後悔してる。
そんな自分に唯一残された光明、それが他人にお礼を言われることなのかもしれない。だからわざと学習せず、わざと目を覚まさず、光明にすがっている。

光明が失われると、もはや「自分を支える未来はない」も等しいから。

けど、どっかでこの空しいループを抜けたいと、温かく鮮やかな世界に行きたいと願っている。
そのためにはACがもっとも苦手とする【自分を世話する・自分を見てやる】ことから始める必要がある。
他人なんて押しのけていい。大事なのは自分の心。
嫌われたっていい、自分が自分を肯定できるなら。
そーいう心の開き直りとでもいったらよいのか、があれば、たとえ世界中が敵になろうとも、一番身近で一番傍に居続けてくれる自分が味方でいてくれる。

泉谷閑示先生の5本のバナナしかり、自分が満足することを何より優先する。
それこそが、この不文律を抜ける大きな鍵になりうるのではないかと思う。