「自分は器だ」とどれだけ思えるか

毎日思うことはたくさんあるのに、ブログに書けません。
文章にちょっと自信を無くしています。

そうはいっても書かねば筆の力も上がらぬ。
下手な文章ですが、お付き合いください。

さて、今日は自分をどう捉えるかについて考えてみます。

最近人と話をしていて、他者が話を加速させるときと失速させるときがあることに気が付きました。
加速させるときは、他者自身が興味ある事・考えたこと・感じたことが話題に上っているとき。
失速させるときは、私が興味ある事などを話しているとき。

「誰」の話なのかで、まったく反応が違うのです。

私が「自分!」の意識が強く前へ前へ出ようとするほど、場は沈んでいきます。
それは聞いている相手にとって私の発言が何の価値も持たないからです。
相手は私の興味を聞いて何が楽しいでしょう?→同じ興味でも持たない限り無価値です。
では相手は自分の興味を話して何が楽しいでしょう?→自分の興味が耳から入ってくる + 私に認められる可能性がある ということは少なからず価値があります。

では私は私の話をしてはならないのか?というとそんなことはありません。
内容を選べばいいのです。
相手が聞いて価値ある内容であれさえすれば。

価値ある内容とは、相手が私に認められていると感じられることです。
「褒める」のとは違う、「認める」です。
この「認める」がクセ者で、自分という意識が陥入すると評価という方向へ転んでしまいます。
「認める」はそのまま受け取ることであって、評価という主観は要りません。
ただ凡人はそれをするのがとても難しい。
ついつい自分の尺度で評価してしまいます。

「すごいじゃない」「そんなことやっていいの?」「だからダメだっていったのに」「そんなの聞いたことない」
これらはすべて評価です。
すごいかすごくないかの境目は?やっていいことと悪いことは誰がきめる?イイとダメって何基準?聞いたことないがなんだっていうのか?

絶対!のない世界において、このような評価こそ不要です。

立場が変われば、今の評価はあっという間に取り消されます。
小学一年生が九九を言えるとすごいですが、大学生が言えてもすごくないように。

評価したくなる自分。
私はこれにずいぶんと手を焼いてきました。
そこで生まれたのが、自分は器なんだという概念。
器なんだから、中に入れられるものにどーこういう立場じゃない。
だけど、器がしっかりしていなければ、中の液体はながれるし、個体は型崩れを起こす。
地味ながらとっても大切な立場なんです。

ー器ー
なんともいえない控えめで、引き気味の存在こそ凛とした美しさを湛えた静かな存在ではないでしょうか。
器だからこそ、主観を抜けて客観、もしくは神の視点から物事を見ることができる。
物事の本質を見極められる。
悪くない存在だと思います。