自分の意識が集中しない

自らの行動を第三者的に見ると、”なんて落ち着きのない、集中力のない思考回路を持った人間なんだろう”と呆れることが多い。
このブログでも、話題が一本に絞れず、あっちに飛んだり、こっちに飛んだり、読者に迷惑を掛けたこと、数知れず。

じぃ~くりと深くというのが、とことん苦手のようだ。

このような思考回路の裏に、ふと幼少期の育て方が関係しているのでは?と思った。


私の母(以下、彼女)はせっかちで、すぐに結果を求めたがる。
子供がその時何を感じていたか、何をつかみ取ろうとしていたか?には関心がなく、ただ大人である彼女が正しいと思うゴールにたどり着くことだけを是としてきた。

ゴールにたどり着けないことは、「悪」、であり、彼女から徹底的にいじめられるので、私は正しい(と思い込まれている)ことに、一分でも早くたどり着かねばならないという脅迫概念に取り付かれていた。

だからなのか、私は通り一辺倒のことは器用にやるけれど、深みのない人間になってしまった。
でも今なら、自分に「こういうことやってみたらいいんじゃない?」「興味があるなら、つきあうよ」という優しい言葉を掛けることが出来るので、以前に比べたら脅迫概念は鳴りを潜めた。

彼女が子供を産んだ頃、20代中盤~後半では、まだ人格がしっかりと出来上がっておらず、外の世界を基準とした子育てをしていたように思う。
自分の兄弟やご近所の同じ年の子供と比べて、劣っていないか、優れているところはないかに気を取られていた。
結果、我が子が劣っていることに自分が劣等感を抱き、耐えられなくなって、「早くできるようになりなさい!」「なんで出来ないの?」と脅しをかけたのだろう。

親が「自分は自分!」という割り切りの出来ないまま、子供を持つと、周りと同等ぐらいが当たり前という自分の理想を押しつけて、子供の成長を妨げてしまう。
いうまでもないが、標準の子供というのは存在せず、一人一人が個性を持ってこの世に誕生しているのであるから、脅しをかけたところで、不適材不適所となってしまい、大した結果を生まない。

結局親が周りに流されず、子供のペースにあわせられる忍耐強さをもっていればこそ、その子の天性は育まれる。
私のような凡人を大量に生産していては、いづれ国家は廃れる。
子供の興味と向き合い、周りがなんと言おうと子供の気持ちを見守ってやれる強い大人が一人でも増えてくれることを、切に願う。