対話への第一歩を踏み出す

-対話をする-
このことの奥の深さを、我々はどれだけ知っているだろう?
ただ話をするなら、好き勝手に話を切り出せば良い
ただ聞くだけなら、黙ってそこにいればいい。

けれど、”あぁ、しっかりとわかり合ったなぁ。分かってもらえたなぁ”と思う対話が存在する確率は極めて少ない。というのも、対話の訓練を受けた人が少ないから。

自分という存在を消して、まるで相手に同化するような感覚を持つと同時に、その場から自分を切り離して俯瞰ながら場を見守る。そういう自分を超えたところに、対話の精神は宿る。

本来なら、精神的な病を抱えた人には、その精神を持った人が対処し、「聞いてもらえる」安心感を前提に問題を整理するのが、望ましい治療の在り方であろう。
がしかし、実際の現場でされていることは、体系づけられた手法を元に技を使って対処することがほとんど。
もっと酷い場合は、医療を施す側の主観的物言いに言いくるめられて、いいようのない絶望感を抱えて、その場を後にする患者さえいる。

私はそのような治療に憤りを感じ、本来の治療の姿はいかなるものかを考え続けてきた。
結果として、相手を一人の人間として見、敬意を持って接することこそが、治療者に求められる最も大切な素養であるとの結論にたどりついた。

我々アダルトチルドレンは、敬意という世界とは縁遠い、貧しいコミュニケーションの中で人間としての基礎を学んだ。
貧しいコミュニケーションを礎として生きる者は、残念ながら似たような者同士でつるむことが多い。
そこには、負のループを抜ける希望の光はない。

だから、ある程度違う世界に接して、自分の礎を変容させていく努力をしていかなければならない。
映画やドラマの中に展開される信頼を土台とした展開、尊敬できる上司との交流。
そういうもの中から丁寧に拾い上げて、どれがいいコミュニケーションなのかを精査し、自分と照らし合わせる。
そういった愚直な行動が、強い心を作り上げてくれる。

私は今まで、心理学・哲学の本でのみ、コミュニケーションの在り方を学べると思ってきた。
だが、ビジネスに近い本に触れることによっても、人と人の有り様は分かる。
むしろ、ビジネスの方がより一般的感覚に近い分、違和感が少ない。

純粋なカウンセラーとは違う、実生活に片足を置いたまま対話を目指そうとしていることが、自分の強みだと思うようになった。
どれだけの要望があるかは未知数だが、そういう私に相談したいという人がいるならば、近々相談の受付を再開したいと考えている。

話すことで心が救われる、話すことで自分がいてもいいのだという感覚に包まれる。
そういうこともあると思う。
具体的な利益を提供するのではなく、心の礎を固めるために、対話という方法を通じて、出来ることをやってみたい。