なにかしてもらったら、「ありがとう」と返す。
この定型語句、ほとんどの人が日常的に使っている。
しかし、何にお礼を言っているか?意外と自覚していない。
とりあえず、物事やしてもらったことへ、ありがとうと言ってる。
果たしてそれは、「お礼」なのだろうか?
事の発端
震災から3年ほど経って、とある番組で当時ボランティアに来てくれた人々へビデオメッセージを送るという企画があった。
何組かの家族が、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供達の順に話す。
テレビ慣れしていないのか、皆さん表情が硬く、ちょとお困り気味。
そして、コメントに広がりがない。
大人「○○さん、あの時は本当にありがとうございました。とても助かりました」「片付けを手伝ってもらって、よかったです」
子供「地震、こわかった。でも手伝ってもらって嬉しかった。ありがとう。」
どの家族も同じ反応。
見ているうちに、私の頭にある疑問が浮かんだ。
”この人たち、何にお礼を言っているのか意識しているんだろうか?”
私は普段から「お礼」に対し微かな違和感を持っていたが、この繰り返しの「お礼」を目の当たりにすることで、それをより鮮明に感じた。
「お礼」にありがちな落とし穴
ほとんどの人は、お礼の言葉として「ありがとう」を使う。
「ありがとう」は「有り難い」から来ていて、その物事が滅多に起きないことから、なされたことの貴重さを表している。
つまり、物や事に対してお礼を言う。
「梨をありがとう」「手伝ってくれてありがとう」
なのに、なんだかしっくりこない。
「ありがとう」がなくては、会話が尻切れトンボで落ち着かないのだけど、かといって、ただあるだけじゃあねぇ~、みたいな気持ちになる。
そりゃ、なぜなんだ?
何にお礼を言うのだろうか?
「お礼」の対象は、物や事。
ということは、「誰」が施してくれてもいい、ということになる。
「お礼」の言葉が、「誰」から切り離されて、物事が貴重だ~と言うために使われたら、「誰」の対象だった人は虚しさを感じるのではないだろうか?
アタシじゃなくても、よかったのね、と。
そう思った瞬間、心の温もりはどこへやら、遙か彼方へ飛んでいく。
温もりを感じるお礼とは、「誰」が「どんな思い」でいてくれたのかに呼応するものである。
思いに思いで応えるから、”思いが通じた!!”という温もりが生まれる。
反対に、そこに思いがなければ、人を介さない物事だけに留まるので、温度そのものがない。
いや、違う!という人へ
「そんなことはナイ!貴重な物事をくれたんだから、物事に礼を言うで十分だ」という意見もあるだろう。
物事に礼を言うことは、物事をした人に感謝することだと。
もちろん、そういう深読みが出来る人もいる。
でも、出来ない人は切り捨てるのか?自分スタイルのコミュニケーションについてこい!と強制するのか?
物事に感謝する人は、お礼を述べた際、相手からの反応が薄かったり、さっと流されたりする。
相手が感謝を感謝として受け取れていないのだ。
「せっかく思いを込めたのに」と思った相手は、貴方に見切りをつけ、離れていく。
つきあえる相手が限られる、ということは、閉塞感と選民性を生む。
果たしてそれが健全な人付き合いと言えようか?
「お礼」は何のために使う?
思いに対して、思いで応えるためにあるのが「お礼」。
貴方が私に掛けてくれた優しさを十分に受け取りましたよ、と返すのが「お礼」。
ということは突き詰めれば、「あなたがいてくれて良かった」という敬意と愛を表す手段として、「お礼」が存在する。
他の人ではできない貴方しかできない思いやりに、私は心を動かされた、だから言葉で返します。それがありがとう。
貴方だけにしかできない心配りだから、有り難い。
有り難いのは、物事ではなく、心。
そういう見方で捉えると、当たり前に使っている「ありがとう」がひと味違う風に感じてくる。
いつ、心からありがとう、と言っただろう。
実は結構覚えていないという人が多そうな気がする。