話かけてくれてるんじゃないよ、聞いてあげてるの!

自分に自信が無いとき、”私は邪魔者だ” という意識から、人とのふれあいに消極的になってしまうことがある。たとえばみんながガヤガヤしてても、自分だけひとりぽつんと壁の花。そんなとき、話しかけてくれる人がいると、ホント救われる。

救われたと思えたのは、”私、取り残されてる、どうしよう”という思いを拾ってくれたから。もともと自分に”独りぽっちにされたくない”という思いがあって、それをなんとかしてあげようという思いがかけられるからこそ、「話しかけてくれてる」というありがた味につながる。

ところが、まったく違う状況で相手から話かけられたのを「話しかけてくれてる」と勘違いしているときがある。それはどんなときだろう?

私はツマラナイ人間だから話をされるだけで満足しなくてはならない?

セルフイメージが悪い人は、自分を人より下位に位置づける。人に何かされたとき、自動的に「してくれてる」と解釈する。

たとえば、相談を持ちかけられたとき。”私を信頼してくれている” とか、”私を相談相手に選んでくれた” とか、勝手に相手が「してくれた」ことにする。
底辺に位置する私でも頼りにされるんだとぬか喜びして、信頼して選んでくれた【期待】に応えようと、必死に頑張る。

昼夜問わず来るメールにはすかさず返事を返し、睡眠時間を削って電話相談に乗る。必要な情報を自主的に集めて相手に渡すこともあるかもしれない。
とにかく全身全霊で、かけられた期待に応えようとする。

始めた当初は、”こんなに頼りにされ、人の役に立てるんだ。幸せ♥” と思うことだろう。しかし、しばらくしてナゾの疲労感に襲われる。
頑張っても頑張っても、底なし沼で、ゴールがまったく見えない。

自分の時間が削られ、集中力も失われ、なんなら金銭的にも厳しくなり…、やり始めた当初の充足感はウソのように消えてしまう。

それでもなお、人の役に立てる幸せを手放したくない、という抵抗は残る。

人生は苦しいの連続?

その抵抗に真正面からあらがえない自分がいる。

なぜなら、どんなに最悪な状況下にあっても、自分を必要としてくれてるという快感を手放す勇気がないから。もし手放してしまったら、また人とふれあうことのない孤立した自分に戻ってしまう。それがとてつもなく恐ろしいのだ。

従って、疲労感と孤立のおそろしさの狭間で、どうしたらよいか深く迷い、彷徨う。

では、それはどちらか選択せねばならぬ問題なのだろうか?人とのふれあいとは、身を削らなければ成り立たないものなのだろうか?

人生って、そんな苦しいの連続なのか?

自分を守るとは?

そんなことはない。人とふれあうこと、イコール、身を削ることにはならない。身を削ってるのは、あなただけ。身を削ってしか相手してもらえない、と思ってるのはあなただけ。

周りを見渡してみると、けっこうみんな好き勝手しゃべっている。しゃべりたいだけしゃべっている人が大勢いる。あなたみたいに、聞いてるばかりじゃないよ。

というと、「私が話すとツマラナイから…」と遠慮する人がいる。
別にしゃべり倒せといってるわけではない。聞いてるだけがふれあうことではないよ、と言ってるのだ。

ふれあいはお互いに認め合うことによって成り立つ。どちらか一方が聞くという献身を強いられるのは、ふれあいではなく搾取だ。そして搾取をさもありなんという顔で行う輩は、ただの暴君だ。

その暴君を前に、なぜあなたは反抗の精神を持てない?
きちんと自分に向き合ってふれあってくれる人なのか、愚痴のゴミ箱として利用してやろうという暴君なのか、見分けよう。見分けた上で、付き合う相手を選ぼう。

あなたには、つきあう人を選ぶ権利がある。与えられた権利を行使して、主体的に人を選び取ろう。そうすれば、必然的に自分を守ることにつながる。

本当は自分が与えてる側ではないか?と疑ってみる

聞くというのは、いつでも出来る簡単な行為に思えるかもしれない。しかし実のところ、相手の言い分に耳をすまし、頭で理解し、必要な相づちを打つという結構な労働である。

それはあなたも経験のある人の話を聞き終わったあとに感じる疲労感で十分理解できるだろう。相手の話を受け入れる、ということは、同時に自分を押し殺すことでもあり、かなりの抑制を強いられる。ということは、会社で働くのと同じく「仕事だから」と割り切っているのと同じ。

会社ならば、労働に対して給与が支払われることでバランスが取れているが、聞くことに関して対価が支払われることはほぼない。いいところ「聞いてもらって、スッキリしたわ、ありがとう」程度のお礼である。

そのお礼であなたが差し出した労力はペイできるのだろうか。もしそうであれば、会社の労働も「一ヶ月ご苦労だったね、ありがとう」というひと言だけで無給でも十分ではないか。

ということで、あなたは労力を相手のために費やしている「与えてる側」の人間なのである。

してもらってる、してあげてる、どっちだ?

「してもらってる」か「してあげてるか」。

最初に例では、こちらの”独りぽっちにされたくない”という思いに対して、”それじゃ、独りぽっちじゃなくしてあげましょう”という思いがかけられたので、「話しかけてもらった」ことになる。

それに対して単に話を聞くのは、こちらが聞き役になりたいんじゃないので、相手の「要求を飲んであげてる」ことになる。あくまでも「してあげてる」。つまり善意だ。

善意は与える側の意思で、頻度も量もコントロールすることが可能だし、権利として認められる。善意は自発的行いであって、その運用については、それを行う者に全権が委ねられているからだ。

そう考えるとき、要求されるがままに労力を差し出すそのスタイルは、自分の手元に全権がある状態と言えようか。

心優しき人ほど、「してあげてる」という意識を持てない。しかしながら、我々が最も大切にしなくてはならない最上の顧客は我々自身であり、顧客を差し置いて他者に尽くそうなどという暴挙に出てはならない。

まずは最上の顧客である自分を幸せにしよう。そして余った幸せを人に渡そう。ただし、はっきりと「してあげてる」と認識する。そして、責任を持って、与える量を配分していく。

いつまでも他人に振り回されちゃいかんよ!!