優しく見える言葉が案外恐ろしいという矛盾

他者の思惑というのは、さりげないところに潜んでいる。けれども優しさという衣をまとっているがゆえ、なんとなく感じる不快さに我々は目をつぶっている。

もっと言葉に敏感になって、相手の本心を見抜かないと、知らぬ間にいいようにされてしまう。なかなか恐ろしいことだ。

f:id:idea-for-life:20190124141731j:plain:w400

違和感のある言葉1

小規模な地震に見舞われたある日、「あー、もぅ心配したんだから」というメールを受け取った。送信者をAさんとしよう。心配してくれたことに感謝した私は、「心配させちゃって、ごめんね。大したことない揺れだったし、大丈夫よ。」と返した。

なんてことのないやりとりである。

けど、よく考えるとなんかヘン。私は小規模な地震ゆえ、驚きもしてなければ怯えてもいなかった。いつもどおりに過ごしていたところに、勝手に相手が心配してきて、それに私の方からつられてごめんね、なんて謝ることまでしてる。相手の寸劇に付き合わされた?

そうである。相手が勝手にそう思って、私はそれに付き合ってあげた、というのが事実だ。ところが私には、Aさんって私を心配してくれる優しい人、という思い込みが発生して、心配かけてすまないなどという誤った認識をした。

ではAさんの本心はいかばかりだったろうか。Aさんは地震を知って、私を思い浮かべた。で、大丈夫だろうかと思って連絡し、安全を確かめてホッとした。そこに「私はこの地震をどう感じているだろう」という考慮はない。すなわち、「私」が不在のまま、頭に浮かんだ不安を消すために、私を利用したのである。だから寸劇と表現した。

Aさんにとって、知り合いがなにかよくないことに巻き込まれるのは、多少なりとも心に暗雲をもたらす要素なのだろう。強く平穏無事を願うタイプである。しかし、願う気持ちの方が強すぎて、肝心の「私」が抜けてしまっている。それは本当の優しさなんだろうか。むしろ、緩やかな支配ではなかろうか。

違和感のある言葉2

とくに大変さを感じずにやった家事に、配偶者Sがこういった。「○○してくれて、ありがとう」。一般に円満な家庭を築くには、感謝の気持ちが大切だと言われる。

ところがこれを聞いた私の心に広がったのはどす黒い墨であった。とてもがっかりしたのだ。

え?どういうこと、と思われるかもしれない。たしかにささいな家事であっても、お礼を言われるのは嬉しいことのように思える。けれど、私には「この家事やったどー」という意識もなければ、達成感もない。

息をするように当たり前にやったことを、いちいち取り上げてお礼を言われると、「なんか違う」が先行する。「むしろ、礼をいうなら別のことにだろ」とさえ思う。

違和感を感じた理由は、やはり「私がその家事をどう感じているか」という視点の欠落だ。
Sはこれはいいことをしてくれた!と思ったから、お礼を言った。つまりSの独断で進められた寸劇であって、肝心の「私」は無視されている。いくら感謝が素晴らしいからといって、こちらの意識にかすりともしないものに礼を言われるのは、いけ好かない。

そんなの優しさじゃなくて、押しつけではないか、と思うのだ。

優しい言葉は全然優しくなんかない

このように優しく見える言葉が、相手を支配したり、相手に押しつけたり、ということは、気づかないだけでここかしこに存在する。ところが、私達は心配されることや感謝されることは、大変有り難いことだと思い込んでしまっているがゆえに、「私がどう思っているか」をぞんざいに扱われていることにさえ気がつかない。

皮肉を込めて表現するなら、何も考えられてない私達は「頭のめでたいパッパラパー」である。

言葉に真摯にあるとは、言葉の云わんとする意図を汲み取ることである。それを気安く放棄してはいないだろうか。
この言葉はこうやって使うもの、この言葉はこういう意味、と一意に取り込んでしまって、その裏にある意図に手を伸ばすことを端折っている気がしてならない。

昨今、分かってくれる人がいないと嘆く声を耳にするが、己は分かってくれる橋渡しとなる言葉とどれだけ真剣に向き合っているのだろう。

盲目的に言葉を受け入れてしまうからこそ、相手、ひいては自分への理解度が下がっている。まずは目の前にある言葉の意味をきちんと理解して、言葉に秘められた恐ろしい意図をきちんと拾い上げられることからではないだろうか。

優しい言葉に惑わされてはいけない。本当の優しさは「私」の居場所をきちんと与えてくれる。