我が子を堂々とした人にするには?

貴方は何事にも動じず、堂々とした振る舞いをするタイプだろうか?
それとも、周りに影響を受けやすく、びくびくした振る舞いをするタイプだろうか?

今からウン十年前の就職活動時、私はハキハキとした人物だと印象づけるために、明快な返事、きびきびとした動きを心掛けた。
面接室への入り方、名乗り方、応答の仕方、退室の仕方。素の自分とは違う人物を演じた。
演じている最中心の中で、”こんなウソ、すぐ見抜かれるんだろうな~”と思っていた。

社会が堂々を求めるのに、自分はちっともそうじゃない。社会に入る前から、不適合者の烙印を押されたような気持ちになった。

堂々としているとは、どういうこと?

堂々としているとは、自己主導的(自分ですべて決めていくこと)であることを示している。
”自分の意見を言ってよい、自分が正しいと思うことを推し進めていこう!”
自分の抱いた考えを肯定できる人は、”堂々としよう”などと意識しなくても、堂々とした態度になってる。
初対面で、”あの人信頼できる、頼りになりそう”と言われる人は、堂々とすることが身体に染みついているのだ。

びくびくしているとは、どういこと?

一方で、びくびくしているとは、環境主導的(周りが決めたことに従う)であることを示している。
”自分の意見より相手の意見の方が優れている、自分が間違っているかもしれないから意見を出さないでおこう”
自分の抱いた考えを否定しがちな人は、自然と目線が下を向き、声が小さくなり、おどおどした態度になる。
初対面で、”おとなしいね、覇気がないわ、存在感が薄い”と言われる人は、堂々としたければ意識してつくりあげるしかない。

びくびくをつくりあげる原因

自分の抱いた考えを肯定的にとるか、否定的にとるかは、置かれた環境と気質で決まる。
気質については、生まれ持ったものなので、ここでは除外する。
置かれた環境について論じていこう。

よく気が付く母親なら、”子供がやれなかったら・恥をかいたら、かわいそう”と先回りして考え、あれこれと手を出す。
子供は自分がするより、周りがしてくれる方が上手くいくと学習して、待つのが一番という信念を持つ。

学校に入ればいろんなタイプの子がいて、黙って待っている子は、置いてきぼりを食らう。
ぐんぐん前に出る子の意見ばかりが採用され、黙っているその子は”いまさら自分が意見を言ってもしょうがないよね”、と意見をひっこめ、周りに同調する生き方を選択する。
集団行動において、何も言わない子が「なぜ、何も言わないのか」と尋ねられることはめったにない。仮に気配りのある教師が意見を求めたとしても、上手く言い表せず、より一層何もできないという無力感を強めることだろう。

親はよかれと思ってやったことが、家の外の社会で、その子のらしさを奪い、生きにくくしている。

親はどうすればいいのか?

つまり親はたとえ気が付いても、本人が言い出すまで待つことだ。
そして子の言ったことが多少的外れであったとしても、よくよく耳を傾ける。きっと子供ながらの理屈がそこにある。
多少骨が折れるが、子供の理屈と親が正解と思う理屈を寄せていくために、両者の共通点を見出す努力をする。そうやって子供の意見を潰すことなく、より高度な考えに導いていくのが、親の務めであり愛情だと思う。
この体験を通し、2つの異なる意見が1つにまとまることを学ばせ、子供の意見も貴重であると理解させることで、意見の言える子に育てていく。

ありがちの間違った対処

「はっきりと返事をしなさい」「もじもじするんじゃない」といくら叱ったところで、子供はありのままの心と求められる態度の差に戸惑うだけ。

こんなやり方では、
心にウソをついてでも、周りがいいと思う人物を演じろ!
というメッセージが伝わってしまう。それは本意だろうか?

何事もまず、心の状態を見て、心の理屈を一緒に考えて、どうしたらいいか共に悩む。
これが好ましい態度を身につける、無理のない唯一の方法。

無理に好ましい態度を身に着けた人たちが起こした問題

うわべだけ堂々とした態度でいると、気を緩めたときに心が思わぬ反撃に出る。
学校の先生が生徒にみだらな行為をしたり、地位ある人が軽犯罪を犯したり。
意識しないままため込んだ心の抑圧が、抑えつけられなくなって、吹き出してくる。

大人になって社会的信用を失うわが子を、見たいだろうか?

子育てとは結局

だからこそ、子供の幸せを願って、手出しをせずに見守ることだ。
見守るということは、失敗する・下手な子供を見つづけ耐えるということ。
言いかえれば、ネガティブな自分の分身を見つづける我慢をするということ。
結局のところ、ダメな自分を、ダメでもOKと受け入れること。心の器を広げるということ。

「子育てとは親育て」とは、よく言ったもんだ。