「対立」を恐れていないか?

あなたはだれかと「対立」したとき、どのように応対しているだろうか?
私は多少の議論は試みた後、だいたいの人とはつながりを切ってしまった。
多くの大人が、[人とのつながりの難しさ]を口にしているのを見ると、こうなるのは私だけではなさそうだ。

「和を以て貴しとなす」の精神が浸透している我々は、「対立」を忌み嫌い、なるべく早く見えないところへ追いやろうとする。

しかし「対立」は、恐れるようなものだろうか?
今日はこれを考えていきたい。

「対立」はあって当たり前、なのに・・・

ある物を見たときに、それを何ととらえるかは、その人の文化的背景や個人の中の意味づけに因るところが大きい。
例えば、ノベルティー。
お店は、感謝の気持ちをノベルティーで表したつもり。
一方お客は、ノベルティーなんて欲しくない、迷惑だと感じている。
品物は同じノベルティーだが、それが意味するものは違う。

そんなとき違いをわざわざ表面化して「対立」させないことが、大人の対応とされる。

「対立」を避けたゆえに生じた弊害

しかし、客が大人の対応をすると、”ノベルティーは迷惑”という意見が浮き上がってこない。
客側は、余計なものを渡された挙句、気分を悪くするだろう。

一方店側は、よかれと思ってやったことが裏目に出たことにも気づけず、客の気分を害してしまった。それだけでなく、今回ことに自信をつけ、ノベルティーに力を入れた場合、客足を遠ざける可能性もある。

「対立」を避けたがゆえの結果である。
本当に避けた方がよいといえるだろうか?

「対立」に向き合うからこそ得られるもの

違う考えに耳を傾けるのは、骨は折れるが、それを勘案しても余りあるメリットがある。

例えば海に行きたい夫と、山に行きたい妻がいたとする。
互いを説得するために、なぜプランを推すのか議論すると、実は妻が実母の命日に山ユリを墓前に供えたくて山に行きたいといったことが判明した。
夫は妻のやさしさを知ると共に、”行きたいから行く”ではない行先の決め方もあるのだなと自らの幼さを反省した。

「対立」に向き合うことによって、互いの理解が進み、自らを省みることができる。

[「対立」を恐れる心]の影に隠れた、本心

では、なぜ人は「対立」を恐れるのか?
分かりやすく極端な条件下で考えてみる。

人は自分が不利な状況、危機的な状況に置かれると、自然と防御的な姿勢に入る。

自分を”できない、負ける、失敗する”と思っている人ほど、強くその姿勢に入りやすい。
それは、自分のふがいなさをこれ以上見たくない!という気持ちが働くからだ。
人の意見には一切耳を傾けず、必死で今の自分を護りに入る。

それに比べて、自分を”できる、切り抜けられる、なんとかしてみせる”と思っている人は、いったん防御的な姿勢に入っても、その姿勢の自分を自覚し、その姿勢になりたがる自分をなだめ、切り抜ける方法を探し始める。切り抜け姿勢に移行した後は、人の話も聞くし、自分の意見も言う。

できないと思っている人は、「対立」で生ずる議論に勝つ自信もないし、かといって議論に向き合えぬ弱さを認めることもできない。ふがいなさだけが悪目立ちするのを嫌って、「対立」を恐れている。

できると思っている人は、論戦どんとこーい!!状態だし、弱さを認める勇気もあるので、「対立」は恐れるに足りず。

つまり恐れをなしているのは、”できない”と思っている人だけ。
「対立」を恐れる陰には、”自分はできない”という自己否定感が隠れている。

「対立」を恐れることなかれ

自己否定感を持つ人は、「対立」を避けたいし、穏便に済ませたいと思うだろう。
そういう生き方を選択をすると、自分と同じ価値観を持つ相手としか付き合うことができないし、その相手とも「対立」が生じたらおしまいになる。
大きな波は立たないが、細くて切れそうな線でつながった人間関係。

そこに信頼や安心は存在するだろうか?

「対立」イコール「攻撃」ではない。
「変化のスタートライン」だ。

自分とは違う意見に出会えるからこそ、見落としに気が付けたり、もっと考えの進んだアプローチにたどり着くことができる。
「対立」があるからこそ、気づける、変われる、相手と通じる。
だから、「対立」を恐れることなかれ。

今日の文章はいまいちです。ごめんなさい。ちょっとでも伝われば。