足きりはあっていい

再来月には大学入試センター試験が実施されます。
国立大学を受験した人はご存じのとおり、このセンター試験の獲得点数によって、二次試験に進めるか決まります。いわゆる足きりです。

一見すると足きりなんて、門前払いでひどいじゃないかと思うかも知れません。
が、果たしてそうでしょうか?

「足きり」あった方がいいと思ったこと

私はある団体の会合に参加しました。そこそこ知的な団体です。
参加するに当たり、課題が出されており、チンプンカンプンだったので、「ちょっと難しいです」とお断りしようとしたところ、「みなさん、そうおっしゃいますよ。大丈夫です。是非ご参加下さい」と快いお返事をいただきました。

そして、当日。
課題にそって進みます。ところが、私はその分野になじみがなく、知識も十分でないため、出てくる単語一つ一つを拾うのに必死で、意見を求められてもまともに答えることが出来ません。
一時間半の会合のあと、どっと疲れが出ました。

せっかくの知的ワクワクを得られる機会が、ついていくのが必死のヘロヘロ体験へと変質したのです。
このとき、やはり基準はあった方が良い、なんでもかんでも受け入れるのは、結局優しくないんだ、と実感したのでした。

今の実力よりちょっと上を目指すのは、能力を引き上げることになるため良い結果に結びつきます。
では、実力よりずっと上を目指すのは・・・、辞めた方が良いです。無駄に挫折感が拡がります。

客観的に見て実力より上を目指し過ぎていますよと警告してくる足きりは、門前払いの役割だけでなく、その場を楽しめる、十分に自分を出せる場であることを保証するセーフティ枠としても、機能しているのです。
いや、むしろ、そっちの方が大きい。

「足きり」があるからこその御利益

京都の花街で一見さんお断りというのも、客に存分に遊んでもらうためです。
紹介された人は、資金的・人間的保証が付いていることになりますから、いちいち「支払いどないします?」なんて興ざめすることを言われないんです。
どんなイレギュラーな依頼にも、快く対応してもらえる。これで存分に羽が伸ばせます。

「排他や、排他や!!」と騒ぐ前に、その人の居やすい場所というのがあるのです。
なんでもかんでも受け入れるのは、権利ばかりを主張する現代の、冷酷な一面なのかもしれません。