精神成長について考えたこと

完全なる独り言です。頭の中をそのまま書き写しているので前後の脈絡はありません。

メラニー・クラインの提唱する妄想・分裂ポジションは、精神的に幼く自己中心的な人々に見られる精神状態である。

目の前の人に感情があることが分からず、自分にとって良いか悪いかだけで判断をする。
さっきまで良かった人が、ちょっと自分に都合の悪い方に向くと、途端に<その人=悪>という極端な振れが生じる。
そして自分を正当化する。
”私悪くないもん!相手が悪いんだもん!”ってやつだ。

反省できない人、謝れない人、責任転嫁する人。
よくいる”(仕事が)出来ない大人”は、妄想・分裂ポジションなのである。
ちなみにこの妄想・分裂ポジションを呈するのは、生後直後~6ヶ月らしいので、出来ない大人40歳のオッサンの精神ポジションが6ヶ月の赤ちゃん並ということになる。

脳は発達するに従い、自分を省みることのできる抑圧ポジションに移行するのだが、生後6ヶ月以降脳の発達が進まない・躓いた場合には、自分と人の関係を【部分対象関係】と捉えることしかできない。つまり”良いも悪いもひっくるめて人なんだ”という統合的な人間像を理解することが出来ず、他人に完全を求める極端な思考になる。

極端な思考の中では、脳は常に緊張状態を強いられる。
現実世界はファジーなので、完全との開きを埋めるべく不必要な努力をしたり、相手の不完全さにストレスを感じて、脳が疲れ果てる。

そこで10年ほど前に流行った「癒し」という概念がもてはやされるようになる。
今考えると、癒しとは完全を追求する離散的思考から離れるために、あえて連続性をもつ自然を求める行為だと思う。

鳥のさえずりに完璧はないし、森の緑に完璧はない。
ただそのあるがままの美しさを以て、受け入れるという開放的な世界に人は安らぎを求めたのだ。

けれども元をたぐれば、己が精神ポジションを停滞させ、完全という凝り固まった思想のまま成長を止めていることが原因なのだ。
途中で曖昧模糊とした連続を求めても、一時しのぎにしかならない。
ということは、人生の最初に立ち戻って6ヶ月目からやり直すか?

しかし、職場にムードメーカーがいれば、人付き合いがスムースになったり、環境がよくなったりということはある。
完全な育て直しなどないのだから、偶然周りにいるムードメーカー、即ち【全体対象関係】で物事を捉えられる人の恩恵を受けるのも、またアリな考えだと思う。
朱に交われば赤くなるのだから、素直に【全体対象関係】に染まればよいのだ。

そして染まった暁には、その色が抜けないように自分で色を着色できるように、自分なりの【全体対象関係】を形成する努力をしていく。
今我々に必要なのは、そういうムードメーカー的な人だと思う。

閉塞的環境、皆が自分の方ばかり向いている環境では、小さな革命は起きない。
社会がこれから求めるのは、実力のある人ではなく他人の実力を引き出せる人だ。

協力していくことで、よりよい未来を切り開く。
一人一人が心の中の妄想・分裂ポジションに立ち戻ってしまいそうな自分を見つめ、年齢に見合ったように成長していかねばならないのだと強く思う。