沈黙が苦手、の本当の意味するとこ

誰かと一緒に居るとき、沈黙って平気ですか?

関西人の私は、沈黙が苦手。ぽっかり空いた時間を言葉で埋め尽くそうと必死です。
でも、埋め尽くしたからってなにがいいのでしょうか?

今回は、なぜ沈黙を苦手としてしまうのか?を考えたいと思います。

どんなときの沈黙が一番苦手?

家族のように毎日望まずして顔をつきあわせる相手に対し、始終話していないと気が休まない、ということはないだろう。
ある意味、いつでもどこでも話せるから、話したいときだけ話せば良い、というスタンスになる。

対して初対面の人、接待しなくてはならない相手、内面が分からない人、といった遠い存在を前にすると、ほとんどの人が何かしらの言葉を綴らなければ、という強迫概念に晒される。

このことから、人は身近な人より遠くの人に対して、沈黙を苦手とすることが分かる。

沈黙が平気な人もいる

ところが、世の中にはほとんど言葉を交わさずにいて平気という人がいる。自分の事を意識してくれても意識してくれなくても結構!と気持ちいいほどふっきれてる。
そういう人はへんにこびたり、へつらったりしないし、たまに開いた口が発する言葉は、珍しさも相まって重さ十分、みんなが側耳たてて聞いてくれる。

100しゃべってほぼスルーされるより、1しゃべって重宝される方がいいじゃん!という価値観なので、話して意味の無いことはそぎ落とす。言葉のミニマリスト。選び抜かれた言葉にはセンスが光る。

沈黙がもたらす恩恵

しゃべらないからといって、頭がお休みしているわけではない。
むしろ言葉に脳力という資源を取られないために、より深く思考することができる。

たまに発せられる一言が的を射ているのはそのせい。
数打ちゃあたると対極的にある狙いを定めて打つは、結局の所体力の温存と思考の進行という大きなメリットがある。

沈黙は相手に任せることのできない自信のなさが原因

沈黙も悪くはない、いいことだってある。そう分かっていても、目の前に横たわる沈黙が怖くて口を開いてしまうことはあるだろう。

分かっていてもできないのは、信じる力がないからだ。
相手に任せる、場に任せる、そうやって他にゆだねて、それでも大丈夫と信じる力がないと、全部自分でやりたくなる。やらないと気が済まない。悪い想像が押し寄せてきて、それに打ち勝つことができない。
裏を返せば、自分だったらなんとかできると思っている。その思い上がりが、沈黙を沈黙たらしめることを許さない。

疑うことは、めちゃくちゃ簡単。信じることは、死ぬほど難しい。
その難しさを超えるために必要なこと。それは人を信じること、強いては自分を信じること。
自分を信じていれば、沈黙によって拡散した場を招集することもできる。

沈黙の得手不得手も、結局は自信の問題に行き着く。