「○○死ね!」と叫ばざるをえないのは、あまりにも追い詰められてるから

保育園に落ちた母親が放った「日本死ね!」に端を発した過激な表現の拡がり。
言葉は汚いが、その分切実な思いも伝わる。

子供の教育にもよくないと分かっていながら、そのような言葉を選択せざるをえないのか、考えてみたいと思います。

過激の裏に潜む切実な思い

家計を支えるために、キャリアを途絶えさせないために、どうしても働きたい、働かなくてはいけない。そういう人は、心の底から保育園に子供を預けたいと願っています。

どんなに手を尽くしても、大半の男性が当たり前のように手にしている「働くこと」を手に出来ぬ女性は、その怒りをどこにぶつけたらいいでしょう?
保育園に怒鳴り込んでも、夫に愚痴っても、意味ないことは分かっている。
だからネットで叫ぶんです。「なんで私の子が保育園には入れないんだ。当たり前の働く権利を奪うんだ」と。

まだ怒りがピークに達していないときは、こうやって理性を保った言葉にできる。それが、メチャクチャ追い詰められたとき、言葉の理性が失われる。

たとえて言うなら、相手からボコられて最終的にナイフで刺されそうになって、必死で抵抗したらナイフが相手の心臓に刺さっちゃったみたいなかんじ。要するに、必死の防御。
抵抗しているときに、”自分がナイフで相手を刺すかも。だから気をつけよ”と思う余裕のある人はいない。我が身を守るために無我夢中。気づいたら、相手にナイフが刺さっていた、という人を誰が責められるでしょうか。

汚い言葉だからこそ、伝わることもある

汚い言葉には、汚さと同時に心を貫く必死さがあります。汚い言葉ほど、人間の根源に近いもの表現できる。

実際、過激な言葉使いが、同じ立場に置かれた人々を、わずかながらも国を動かしたのですから、汚い言葉にはとてつもないパワーが秘められてる。
多用は控えるべきですが、ここぞと言うときの伝家の宝刀として、そういう使い方もありだと個人的には思います。

本当は「○○死ね!」と叫びたい人でいっぱい

今日のニュースで、共働きなのに家事は女性という風潮に強い反発を覚える女性が、保育園落ちた人と同じ表現を用いました。
私も同じような風潮にさらされた経験から、この女性の怒りはよく分かります。

このような怒りは共働きの女性だけでなく、労働力を買いたたかれている低所得労働者、会社の不正に手を染めさせられる社員、大企業の不正行為でリストラされたサラリーマン、家庭内暴力に晒された子供達、といった誰かの犠牲にならされた人が感じていることです。

日本国憲法第二十五条一項に「全ての国民は、健康で文化的最低限度の生活を営む権利を有する」と定められてるにもかかわらず、正当な報酬・安全性・地位が約束されない現実があります。
それらが揃わないということは、人としてまともに敬意を払われていないのですから、怒って当然です。

豊かと思われている日本も、別角度から観れば、まっとうな扱いを受けてない人であふれかえっているのです。

やられてもやられっぱなし、という現実を知る

半沢直樹というドラマが視聴率40%を超えたのは記憶に新しいところ。なにゆえこれだけの支持を集めたか、といえば、現実問題はやられたらやられっぱなしだからです。人のミスで自分が傷つくという理不尽に、多くの人がなんだかなぁという思いを抱いていたところ、半沢直樹はやり返してくれた。感情のカタルシスが行われたのです。

もし、やられたらやり返すという因果応報が毎回きっちりと成り立つなら、全ての人は自分の身を律するでしょう。実際は逃げ得、なすりつけ得がまかりとおるから、悪行をする人が絶えないんです。

我々は半沢直樹の世界を夢見ますが、実際はやられてもやられっぱなしという現実をまずは一度受け止めなければなりません。

どうしようもない現実が、汚い言葉を生む

力の無い平民はお上のいうことを聞かねばねらないのか。平民には人としてまっとうに生きるための権利でさえも保障されないのか。我慢、抑圧、人権剥奪。
誰もが望む「自分を大切にされたい願望」が強く否定されるとき、とてつもないエネルギーを伴った感情が吹き出す。

その感情が攻撃という形ではき出されたとき、汚い言葉となる。溜まりに溜まった感情を理性の境地に引き戻すことなど出来ない。それほど、ギリギリまで頑張ったのです。

汚い言葉の裏には人々のやりきれぬ思いと、行き場のない怒りがある。その気持ちを慮るとき、彼女らがいかに追い詰められているのかを、知ることとなるのです。