家事をしても報われないお母さんを苦しめる本当の原因

あなたのお母さんはどんな人だろうか?

子供や夫の世話を頑張る人、それとも自分の人生を謳歌する人?
前者は高度成長期に母の鑑として賞賛されていた。そんな母の背中を見て育った娘は、彼氏に尽くす女性へと成長する。そして結婚し、子供を産み、母と同じく世話にいそしむ人となるのだ。

この生き方に本人が満足しているなら、ここから先は読まなくていい。だが、不満足なら、自分の生き方を見直そうではないか。

不満足が生まれる背景

人はメリットを求めて行動する。人の世話をするときのメリットとはなんだろうか。

それは感謝だ。
「お母さんが世話してくれたから、私は○○できた。ありがとう。」というひと言を求めて、せっせと尽くす。このひと言に幸せが凝縮されているんだ。ところが実際このような言葉を聞くことは稀だ。日々の暮らしに忙殺され、お母さんの家事は感謝よりやって当たり前と思われている。それでも母だって人間だ。頑張っても頑張っても報われないことに不満を抱く。そしてこういうのだ。

「少しくらいお母さんに感謝してくれたっていいじゃない!」

それを聞いた夫や子供は内心 ”今更なにいってんの?” としらけた気持ちになる。もはや手遅れなのだ。彼らの中では、お母さんは家事をする物体であって、物体が文句言うなんてお門違いじゃね?くらいに思っている。
本来なら育まれているはずの、人を思う気持ち、がちゃんと育成されてなかったのだ。
なので、こんな言葉が返ってくる。

「お母さんどうしたの?なんだかオカシイよ。」

母親にとってみれば、オカシイ人扱いされて怒り心頭である。すねた母親は以後、やる気が失せるかもしれないし、心を病んでうつ状態になるかもしれない。
いずれにしても、心中穏やかではいられないだろう。

どこでボタンを掛け違えた?

では母親のやってることは、やって当たり前で価値がないのか?といえば、それは全くといっていいほどない。洗濯や掃除はアウトソーシングできても、細々としたことー送り迎えや急な呼び出しへの応対などーは、専従の人がいてこそ。お母さんの代えは、この世に一人としていない。

ならば希少性の高いこの仕事はもっと感謝されてしかるべきなのに、なぜ? である。

ここで押さえておくべき人間の性質がある。
それは、当たり前のように与えられるものに人は有り難みを感じない

大根がタダでもらえると、3回目くらいから大根に価値があると思えなくなる。たった3回でそう思うのだから、何千回とタダでやってもらった家事に対して価値を見いだすことなど、出来るはずもない。

つまりタダで家事をやるから、感謝されないのである。ならばお金を取るのか?と考えるのは、安直すぎる。
弁証法的に考えて、タダで家事をやる、お金を取って家事をやる、とは違う第三の解を考えるべきだ。

第三の方法とは?

では第三の答えを見つけるにはどうしたらいいか?

そこで、お母さんが感じている理不尽さを整理してみる。

  1. 私は家事をやっても感謝されない
  2. 私だけが自分以外の人のために労力を割いている
  3. 私は家事という労働をしているにも関わらず賃金をもらっていない

1.は声にだしてみたけどNGだった。3.は現実的ではない。だとしたら使えそうなのは2.だろうか。
もしみんなで家事を分担できたのなら、「私だけが」というすねた思いが消えて、不満も薄らぐだろう。

それに人はやってみて初めて、やることの大変さが分かる。するとやってもらうことへの1.感謝の気持ちも生まれるんじゃないだろうか。

みんなで家事分担の一番のハードルは?

と、ここまできて、なんだかスムースにことが運びそうな気がするが、実は奥に鬼門が控えている。

想像してみて欲しい。
夫に風呂掃除を頼むとき、
妻「あなた~、お風呂掃除しといて~」
夫「分かったよ。今行く~」
夫、風呂を掃除
妻、チェック「あらっ、ここやり残してるじゃない。ちゃんと見てる?」
夫「…」
妻「ちゃんと見てやっといてよね。二度手間はごめんだわ」

このとき妻の頭にあるのは、最初から完璧に風呂掃除ができる夫の像。
しかし実際はやったことのない風呂掃除を前に困惑する夫。
普段夫からちょっとしたミスに嫌みを言われてる妻は、ここぞとばかりにリベンジする。

初めての風呂掃除でいきなり怒られた夫は、掃除への意欲が減退し、以後、積極的にやろうとはしないだろう。そして腰の重い夫にやらせるのが面倒になった妻は、私がやった方が早い、と早々に家事を取り上げてしまう。

さて、このケースの一番のハードルはどこにあっただろうか。

だいたいは妻の厳しい態度が問題だと言われる。
が、ちょっと待って欲しい。どうして厳しい態度になったのだろう? そこで思い出して欲しいのは、「リベンジ」という言葉。
家事を頼む前から、静かなリベンジの炎が心の底でゆらめいていた。このリベンジの炎こそが、一番のハードルである。

家事をやってもいいしやらなくてもいい

”家事をやらなきゃ家が回らない。だからしなくちゃしょうがないじゃない!”
あなたがそう思うから、本意に背いて家事をし、やった事にいちゃもんがついてリベンジの心に火がともる。

とすれば、思い込みである「家が回らない」を疑うことだ。
洗濯も、掃除も、料理も、全部放棄したって問題は生じない(ペットの世話はしてね)。誰かがやるから誰もやらないのであって、誰かがやるのをやめれば、代わりに誰かがやろうとする。その「誰かがやろうとする」を信じられるかどうか、が問題だ。

自らがやってもやらなくても構わないし、家の中の誰かはやる人がいなくなったらちゃんと自分でできるようになる、と考えると、クサクサしていた気持ちが少し軽くなるんじゃないだろうか。

あなたが家事を手放さない理由

きっとこんなこと、言われる前から分かっていたはずだ。
でもそうしなかった。それは、家事を手放すと自分の居場所がなくなるんじゃないかと怖れているから。

あなたは何もしなくても価値があって、みんなに好かれていて、受け入れられるのが当たり前、と思っていれば、やりたくないことまでやろうはしない。
だが、あなたは自分は価値がなくて、仕事しなければ居場所もない人間、と思っているから、やりたくないことでも我慢してやろうとする。

そうやって役に立つ人間を演じることで、無理矢理人に必要とされる私になろうとしている。
つまりお母さんを苦しめているのは、感謝しない家族ではなく、家事をやらない周りでもなく、人に必要とされることへの執着なのである。