人を斬って捨てるのは爽快だけど…

こうするべき!
だから言ったじゃないの。

といって、相手を斬り捨てるのは実に爽快です。まるで神様になったかのような清々しさを覚える。

でもやればやるほど、人が離れていきます。孤立していきます。

なんででしょう?

気持ちいいことは、好かれることと両立しないのでしょうか。もしかしてこの爽快さには、危うさが隠れているんでしょうか?

爽快さの危うさとは

人の間違いを正すとき、我々は無敵と化します。我がほころびに一切目を向けず、ただただ斧を振りかざす側でいられるから。

自分の問題ではない、と思うと、人はどこまでも理想を追い求めます。相手に完璧であることを求めます。

自分でやる、ときは現実との折り合いを考え、自分がやらない、ときは現実離れした要求をする。これは人間の持つ「自分に甘く、他人に辛く」という不均衡さの顕れでしょうか。

成熟した人は、不均衡さのもたらす害悪を、戒めにしています。「今、こんな偉そうなこといってるけど、果たして自分はできるのだろうか?」、「相手の立場にたって、ちゃんとやれるだろうか、どうやったら実現できるだろうか?」、自らの問題として考えてみる真摯さがあります。

やはり「相手の立場にたって」見られる人の言葉には、厳しい中にも、相手の尊厳を守ろうとする優しさがあります。相手の尊厳を守ろうとするからこそ、相手が聞く気になるのです。

ですから、話した内容に関わらず、尊厳が注告にもっとも必要な精神ではないでしょうか。

と考えると、尊厳を守ろうとした時点で、爽快さが伴うのか?と疑問です。バサッと斬るから、すっきりするのであって、尊厳を守ろうとすると、爽快さより温かみや信頼といったものが優位になると思うのです。

斬る人の心の内

私達は日々、理不尽な思いを抱え、ストレスをため込んでいます。ストレスマグマはぐつぐつしていて、今か今かと待ち構えています。そこへ来ての誰かのミスとあらば、千載一遇のチャンス、逃すはずもありません。

斬って、斬って、斬りまくって、少しでもストレスを外へ出そうとします。こういうとき、出すのに必死になって、聞かされる側への気持ちなど一ミリも考えられていないんですよね。そこまでの余裕がないんです。つまり「自分に甘く、他人に辛く」の原因は、ため込んだストレスを上手く外にだせていないことにあります。

そして、ストレスをため込んだのは自分であり、第三者にはなんの関係もない。だから聞かされる側は不快に思うし、さっさと去りたいと心底願うのです。

そうやって人に去られ、嫌われていると、それがまたストレスとなって、斬り捨てループに拍車がかかります。

斬りたい、をどう変えていくか

ほとんどの日本人が、尊厳についてまともな教育を受けてきませんでした。一方で、ドラマ「半沢直樹」に代表される成敗物のドラマは、ますます活況の熱を帯びています。

すなわち、爽快さへの啓蒙は進む一方で、尊厳については学ぶ機会さえ乏しい。だから時代が令和になってもなお、「尊厳を守る」とは真逆の「我慢する」ことを求められるのです。

「我慢」って、「こう思うけど、その思いを潰して耐えろよ」という意味です。思いに対する尊厳が全くないんです。

でも我慢したら思いって消えるでしょうか。成仏してくれるでしょうか。それよりも、一旦奥に引っ込んだものが、ひょんなことから顔を出して悪さすることの方が多い。

だったら、「我慢」ではなく「昇華」という形や「転化」という形にすればいいんです。耐えろではなく、こっちへ舵を切ろう!、という発想の転換を飽くなきまでに求めればいい。これが人間の持つ「考える力」だと思います。

考えていると、自分が何も分かっていないということに気づかされます。いわゆる「無知の知」です。そして無知の知を知ったとき、もはや人を斬って捨てようだとかいう傲慢さがいかに恐ろしい物か、ひしひしと感じられることでしょう。

もちろんこれを書いている私も気づかぬ内に人を斬って捨てることもあるやもしれません。ただそういうときこそ、後々反省して、相手の尊厳を踏みにじっていないか、無理難題を押しつけていないか、考えてみることです。

その考えがまた一歩私を「考える人間」にしてくれる、と私は信じています。