自分に向く意識を他人の意図に向ける作戦

普段通りの気持ちで誰かと話しをするとき、意識はどこへ向いてるだろうか?
大方の人は自分に向いている。

だから相手から何を「自分」が言われてるか、に集中していて、「相手」がどんな意図で言っているのかに注意を向けない。
従って、遊び半分のちょっとしたディスり(批難)に、傷ついてしまう。

そんな外からの影響を丸ごと受けてしまう自分でいいんだろうか?

意識の矛先を切り替えろ!

「お前って、○○(容姿に恵まれていない芸能人)に似てるよな」と言われた時、真っ先に頭に浮かぶのは、”そんなに見た目イケてないんだ”という悲しみ、続いて”なんて失礼なことを言うんだ”という怒り。

だから、「それってヒドくない? そういうお前だって、△△に似てるぞ」と反撃に出る。
その結果互いの心に残るのは、後味の悪さ。

批難の応酬をしたとて、そこには何が残るというのだろう?

だからといって自分が折れて言われっぱなし、というのは悔しい。
そんなときには頭を切り換えて”なんでそんなこというんだ?”と考えるといいかもしれない。

ディスリは小さなコント劇場

相手は容姿に自信がないから、自分の容姿から目を反らしたくて、「コイツよりはマシ」という対象を作る。
その対象をディスっている間は、自分に落胆しなくていい。
そればかりか「あそこまでヒドくはない」という妙な安堵が手に入る。

こういった相手の心の動きを理解した上で、”なんでそんなこというんだ?”に気持ちを向けることができれば、ディスりは短所から目を反らしたい小心者の戯れ言と解釈できる。その瞬間、「言われっぱなしで悔しい」怒りが、「容姿に振り回されてる可哀想な人」という哀れみに変わる。

容姿を叩きたければ叩けばいい。叩いたところでこちらは痛くもかゆくもない。むしろ空回りの小芝居を見せられて面白おかしい。
他者をディスっている行いは引いた目線で観ることのできる人にとっては、単なるコントでしかない。

みんなと違う作戦に出る

しかし実際こうなることは稀で、ほとんどの人は面白がるどころか、悔しがったり落ち込んだりする。
それほど人は「何を言われているか」に支配されている。

「言われている」に支配されるから、「何を」言われるかが気になる。
言われていることの如何によって、気分が上がったり、下がったりする。
こうなると精神の安定は相手の出方次第となる。

そんな不安定な状態を好む人はいない。ゆえに、人と距離を取る。接触や衝突を避けることで、身の安全を確保しようとする。

それで一生走り続けられればそれにこしたことはない。だが、山奥で仙人のように生きるのでなければ無理だ。

だったら目先を”なんでそんなことをいうんだ?”に変えてみるのはどうだろうか。
ほとんどの人が支配されがちな方向へ意識を向ける中、自分一人が相手の意図を読む作戦にでれば、圧倒的力で制すること間違いなしだ。

藤井聡太四段が誰もが思いつかぬ奇策で相手を制するように、当たり前とは違う作戦を採ることで自分の心を制することもできるんじゃないだろうか。